爆発チューン

大山三ダース

 

 

 

【目次】

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 最後に母に会ったときのことで覚えているのは、帰り際に「気をつけて」と言っていたこと。父に関しては角張った輪郭と気まずい雰囲気のみが思い出されるだけで、父と子の結びつきの弱さを感じずにはいられない。

 東北の故郷から古の都京都へと学問のために赴き早三年、向上心というものは日を追って消え失せていき今はもう食っちゃ寝る不健康体がひとつ残るのみである。といって僕がダメ学生かというと決してそうではなく、やる気の面ではダメダメなのだが、単位はそこそこ取っていて、特に必修単位はひとつも落としていなかった。必修は出席を重視するから毎回出席していれば落とすことはない。出席に関して僕は優秀だったのである。一、二限の講義も欠かさずに行った。朝早く起きるのが苦痛ではなかった。むしろ僕は大学の講義開始時間よりも小学校の登校時間に合わせて起きていたのだ。

 

 はじめてミレちゃんを見たのは一回生の前期試験期間中だった。一限から試験があったのでいつもより家を早く出た。大学までは長い坂道で、近づけば近づくほど勾配がきつくなってゆく。徒歩で十五分ばかりだが自転車でも僕の場合はすぐに降りて押していくのでたいして変わらない。

 その日も坂を正面に見据え自転車を押して歩いていた。早起きして清々しい気分、テストに対して自信満々の態度、という状態には程遠く、追い込まれた徹夜で頭がモワモワとしていて、さらには小雨がぱらつき気分が晴れず、試験後の昼飯を大学近くの薄汚い蕎麦屋で食うかもしくは家に帰って食いさしのメロンパンを食うかといった瑣末な事柄をおぼろげに考える程度の余裕しかなかった。

 ――蕎麦かメロンパンか

 どうだろうか。蕎麦とメロンパン。頭の中で数回復唱して、これは歌になるのではなかろうか、と思い上半身をカクカクさせながら歩いていた。主に上を見上げているときに歌がぽろっとできるものだからそのときも空と住宅街と遠くに見える山々の輪郭をなぞりながら歩いていた。しかしそれには少し語弊があって、僕は雨の中を傘をささず歩いていたので、顔を濡らさぬよう俯き加減で歩いていた。心では空と陸の境界線をなぞりながら。

 坂も中盤に達しやや心に余裕のできた僕は意識を開放させ周囲のものをじっくりと見つめることも可能な心持ちになっていた。やあ門扉よ、お前はいったいこれまで何回開閉を繰り返しこれから何回人を招き入れるのか。やあプランターよ、お前は消耗品であることを自覚しておるのか、それにしてももっと耐久力をつけねばならんのではないか。そうして歩いていると佐久間さんちの表札の横にカエルの顔をした人形がズデンと置いてあるのを見つけた。

 ダフーン。何故このような奇怪なものを。まだドーベルマンの置き物のほうがマシではないか。カエル人形は口唇を限界まで横にひきのばして笑っているとも怒っているともとれる顔をこっちに向けている。手にごちゃごちゃに飾られた槍を持っているところから察すると、おそらく佐久間家ではこいつを門番に見立てているのだろう。笑止。見るとその大口開けた出目野郎はシャアアなどと喚いて我を威嚇している。まさか今感じた侮り嘲りを察知したというのか、ああそういえばカエルでも神と崇められる地域もあると聞く、もしかしたらこのカエル人形は神なのかもしれん、すみませんカエル。僕は心底反省した体を見せつつ、次の刹那、なワケあるくわあっと叫んでカエル人形の顔を手刀で叩き割った。顔が真っ二つに割れたにも関わらずケロッピはシャアシュルルと喚きつづけている。これはまさかホンマモンの神であったか。するとジワジワと後悔恥辱虚無らが団結して押し寄せてきてシュプレヒコールを叫びはじめるので、「な……んで……こん……なこ……とを……してし……まったんだろう」と声にならない声を出しながら俯いて涙を流した。落とした視線の先には大便様の小蛇がシュラシュラと尻尾を振っていたので、僕は涙を止めて、ただいまの器物破損を見ていた人がいないことを確かめてまた歩き出した。

 歩き出してすぐに、自転車を佐久間家前にとめたままだということに気づいて振り返った。

 ダフーン。そこに神様がいたんだ。正確にいえば神の子がいたんだ。

 赤い長靴がワルツを踏む。黄色い雨合羽が牛のように雨を反芻する。短くそろった黒髪がでんでん太鼓のように紅色の頬を打ち鳴らす。小学一年生ほどの年恰好の女の子が、降りそそぐ雨の中で軽やかに激しく舞っていた。

 ミレちゃん。女の子は僕に、私のことをもっと見れ、ほれ見れほれ見れもっと見れ、私を見て離すな、と言っている気がした。人は本当に美しいものに出会ったとき初めて自分の醜さを恥じる。そんなことあるようでないようで、ただ人はそんなとき阿呆になってしまうことは確かである。僕はさっきカエル人形を割ってしまったことを思い出し、ああもしかしたらあのとき見られていたかもしれないな、もし見られていたらきっと粗暴な人だと思っただろうな、そんなことはないのにどないしよかノン、おや雨雲の間から一筋の陽が射した、晴れそうだな、でもあとすこしミレちゃんの舞が見たいから降りつづけ雨、と脳で天気のことを考えていたよ、神童ミレちゃん。

 

 

 僕ははじめて試験を落とした。なぜならその日大学へは行かずミレちゃんの後を追って坂を下ったからである。不運なことにミレちゃんの通う小学校は大学とは逆方向で坂の下にあった。

 僕は次の日もその次の日も同じ時刻にミレちゃんの家の前を通ったが、結局再びミレちゃんに会うには初秋まで待たねばならなかった。ミレちゃんにはじめて会った日が小学校の終業式だったことは僕のパッションを激しく焦がし、愛を磨きあげるために一役買ってくれた。

 

 

 二年の月日が流れた。僕は相変わらずうんたらかんたらと日々を過ごしていて、しかしミレちゃんに関してはうんたらかんたらどころかヒューンと全速力でぶつかっていくというメリハリのついた男、という一面も持ち合わせていた。二年の間にミレちゃんの家庭環境やプロフィールなど外面的状況はほぼ把握することに成功した。その人自身を知るためにはまず周りから攻めなければならない。ミレちゃんの母親が近所のおばさんと立ち話しているのを盗み聞きしたり、公園で遊んでいたミレちゃんのいとことサッカーをしたり、ときにはストーカーのようなこともしながら着々と情報を手に入れた。僕はなるべくスマートにそしてアナログにさらにはエコロジーな方法で情報収集しようと考え、それにはやはり「忍び」だろうという盲目的な結論に達し(僕は山田風太郎のファンだった)、バイトで貯めた金で「忍者七つ道具」という商品を購入した。ときには鉤縄、またあるときには水遁の術を用いてミレちゃんの家や近所に侵入した。成功は油断のもと、油断は失敗のもと。僕は油断や失敗とは無縁で、うまくいくごとに慎重になっていき、二年間で侵入や追跡がバレたこと、それどころかバレそうになったことすらなかった。誰にも気づかれなければストーカーはストーカーとは呼ばれはしない。

 僕は二年の間、ただの恋する男児であった。

 二年間の恋慕によりわかったことは以下のようなことである。

 ミレちゃんは現在小学三年生。かに座のB型。本名は川端ちみ。父は四郎、母は利恵。兄弟はおらず一人っ子。友達からはチィ、両親からはちみちゃんと呼ばれている。得意教科は体育と理科、国語が苦手。身長は一年生のときは前から二番目だったが、三年生になる今ではだいぶん背は伸び後ろから数えたほうが早い。好きな食べ物はハムとりんごとカレーライスで、お歳暮にハムが贈られてきたときにはたった二日で食べきってしまった。ミレちゃんは明るい子で、クラスでも人気者、さらにはリーダーシップも兼ね備えていた。

 しかしそれだけではない、心の優しい子でもあった。信号待ちをしているお婆さんの風呂敷包みを持って向こう側の歩道まで連れて行き、それどころか一緒に目的地まで荷物を持っていてあげたこともあるし、飼育委員のときに飼っていたうさぎが死んでしまい、冷たくなっている遺骸に心臓マッサージをしたらうさぎの胸がベコンと不自然につぶれて、それを見て悲しくなって一昼夜泣きつづけたこともあった。

 ミレちゃんはお父さんっ子で、親子でどこか出かけたときにはいつもお父さんの後ろにくっついて歩いていた。ミレちゃんのお父さんは忙しい人で出張が多く、毎日家に帰るのも遅かった。たまの休みの日にお父さんと遊んでいるミレちゃんは本当に楽しそうであった。一方、お母さんのほうは「慈母」という単語をそのまま人物にしたような完璧なマミーであった。容姿も近所のおばさんたちの中で抜きん出ていて、ミレちゃんがいなければ僕はこの人妻に恋焦がれていたであろうと思うほどの美貌であった。町内会では専ら、「京のクレオパトラ」と呼ばれていた。

 このように今ではミレちゃんについて、さらにはミレちゃんの周辺について多くのことを知っていた。もはや外堀は埋めたも同然であった。しかし、こうして幸せに安穏に暮らしていた僕だが、いつまでも無風状態でやっていけるわけではない。

 二年という月日はミレちゃんの美しさを何倍にも高めたが、僕も三回生の夏をむかえ就職活動を控える身となった。四年あるはずのモラトリアムを一年以上も縮めてしまう化け物は僕の上にも容赦なく襲いかかってくる。まだ何も成しちゃあいないのに。周囲が就職活動に真面目に取り組もうとする中で、僕は呆けた顔で将来を考えるでもなく今を考えていた。はっきりとわかっていることは、やらなければならんちゅうことと、時は満ちたということであった。

 

 

 ガスの元栓を閉め、冷蔵庫の電源を抜いた。もうこの部屋には帰ってこないかもしれない。住めば都というが、最初から比べればだいぶんこの土地にも馴染んだ。正月が明けて実家から戻ってきたときも「帰ってきた」と感じることもある。しかし未練はない。財布を開いて三回目の中身確認をする。六万円。当初はバイトで貯めた金だけにしようと思ったが、少し心許なかったので仕送りから一万円足した。五万円でもたりるだろうが用心にこしたことはない。最後の一万円は使わなければいいだけの話だ。リュックサックには昨日買っておいた食料品を適当に詰めこみ、ポータブルCDプレイヤーと忍者七つ道具のうちのひとつ、手裏剣も入れた。文庫本も持っていこうと考え夏目漱石の明暗か志賀直哉の暗夜行路のどっちにしようか迷ったが、結局読まないだろうなと思いやめた。CDはプレイヤーに入っていた一枚だけにした。それは友人が作った「ば・く・は・つ・チューン」という曲だった。

 

  めっぽうまっぽうめっぽうまっぽう

  世界の終わりが近づいた

  花の香りもわからずに

  すべてわかった顔をして

  香水をつけるお前など

  ガオルックミー ガオルックミー

  ば・く・は・つ・チューン

 

 この曲の作曲者でもあり、僕の友人でもある田原は、

「この曲聴いて澄んだ心でアウトバーンをかっとばせばええんじゃ」

 と言って僕にCDを手渡した。CDにはおぞましいハスキーシャウトと稚拙なギターによる「ば・く・は・つ・チューン」が延々一時間ループして吹きこまれていた。そのときには迷惑な話もあったもんだと思っていたが、今の僕にとってはこの訳のわからない歌こそがぴったりな気がしてならなかった。

 持ち物を確認して、最後に愛用しているべっこう色のフレームの伊達眼鏡をリュックの脇のポケットに突っ込み、僕は外に出た。

 

 外は京都にしては珍しく、カラッと晴れていた。なにか一歩を踏み出すのには最適な日である。散歩している人を装い、煙草を吸ったり口笛を吹いたりしながらミレちゃんの家の近くまで来た。斜め向かいの家の前で靴ひもを結びながら、様子をうかがおうかと思っていたところに、ちょうどミレちゃんが現れた。ミレちゃんは母親に見送られて門から出てくるところで、おおなんたるグッドタイミング、やっぱり僕とミレちゃんの心は通い合っておるのかねフォッフォッフォ、なんてことを思いつつも浮かれた気分とは裏腹に冷静になってミレちゃんの後を追った。

 僕はウキウキワクワクしていた。冷静な気持ちを保ちながらもウキワクしていた。人はみなワクワクさせてくれるものに弱い。好きになってしまう。ミレちゃんを好きなのも必然なのだ。ミレちゃんの後姿も心なしかワクワクしているように見える。気のせいだろうか。いや、気のせいではないだろう。あっそろそろ坂を下りきる、あの交差点で声をかけよう。そう思い、僕はキーンという心の声とともに加速してミレちゃんのスリップストリームに入って、交差点を右に曲がったところで横に並んで声をかけた。

「ミレち、ちみちゃん」

 ミレちゃんはすこしビクッと反応して歩くのをやめこっちを見た。その表情からなにか読み取ろうと思ったが、ミレちゃんの顔面は無表情の極みで全く無意味だった。僕は言葉を継いだ。

「おにいちゃんとどっか行がねえか」

 反応はなかった。

「遊園地連れてったるから一緒に行がねえか」

 なおも無言なミレちゃんの目に不審の色が広がっていく気がして僕は慌てて付け加えた。

「あ、俺はな、藤里貫太っつって怪しいもんじゃねえんだ。この近くに住んでんだけどな」

 そこで言葉を切ってすこし様子をうかがった。ミレちゃんはよほど肝が据わった子供であるらしく、僕の目を怯えるわけでもなく睨むわけでもなくただ無表情に見つめ返してきた。ここにきて僕は重要なことを思い出していた。ミレちゃんは神童、神の子だったのだ。これは僕が勝手に思っているだけのことではなく、ミレちゃんの家の近所でもよく言われていることだった。二年間の身辺調査の間におばさんたちが「川端さんちのちみちゃんはホンマに神童やな。なんでもできてうらやましいわ」と言うのを何度聞いたことか。僕は試す側ではなく試される側だということを忘れていた。改めて敬虔さをもってしてミレちゃんを見つめた。

 無表情。

 無表情というのは状況によって一番面白い顔にもなるし一番怖い顔にもなりうる。僕は自分がこれからさらわれるというのにそれでも無表情な少女を見て沸々と笑いがこみ上げてくるのを感じた。

「なあ遊園地ぷフ行きたいだろくっどうせっく通り道……ぶ……だからなちょヘゲモふヘゲモニーランド連れて行ってがは……やる……やるよ」

 面白いのとなんとなく恥ずかしいのとで僕は赤面した。赤面したことを悟られないように両手で自分の顔を覆って、気持ちを落ち着けるため「にゃあにゃあ」と小声で猫のまねをしてみた。

「いいよ」

 びっくりして両手を広げてパアとやるとミレちゃんがニコニコしながら僕の顔を下から覗き込んでいた。

「ヘゲモニーランド連れてってくれるん?」

「えっ、あっうん。しゃあなしやで。ねずみーランド連れてったるわ。でもな時間あんましないから乗りもんひとつだけな。そんでもええか?」

「うん、はよ行こうや」

 ミレちゃんの笑顔にドギマギして話すことができなくなるかと思ったら案外すらすら言葉が出てきて自分でも驚いた。ちなみにヘゲモニーランドとは、千葉県にあり、ティーンから団塊の世代まで幅広い支持を受けている大人気のテーマパークのことである。マスコットは超巨大ねずみのデッパーキングで、これまた大人気であった。 僕はミレちゃんの手を取りバスに乗った。

 

 

「ハイチュウがええか? それともキャラメルがええか?」

「これ」

 ミレちゃんは魚肉ソーセージを指差した。

「うそん、お前こんなんでええんか?」

「うん」

「まあその歳で魚が好きっちゅうことはええことやな」

「おにいちゃんはなんか食べへんの?」

「せやなー俺もソーセージにしとくわ。すんませんこれ二本。ほいほい」

 キヨスクで魚肉ソーセージと緑茶を二人分買って東京行きの新幹線に乗った。

 平日の新幹線は空いていて前のドアに一番近い席に座った。窓際にミレちゃんを座らせて僕も座ろうとしたときに通路を挟んで斜め後ろの席の乗客と目が合った。大学生くらいのカップルで、男のほうは僕には一瞥も呉れず、ずっとミレちゃんの動きを追っていた。やはりミレちゃんの可愛さは目を惹くらしい。ミレちゃんは少し目尻が釣り上がっていて鼻は高くもなく低くもなくシュッとしていて口元もまさに春のような煌めきをもっていて、大人になったらキツめの美人になるだろうと思われたが、まだまだ今は少女の柔らかさがキツさを中和させていてそれらが奇跡ともいえるバランスをとりあって同居していた。

 ふふふ。

 僕たちは兄妹に見えただろうか。親子というには無理があるかもしれない。しかし、もし僕たちが家族だったとしたら血が沸騰でもしない限りこんなかわいい娘は生まれてこないだろう。僕の容姿は客観的に見て、たとえて言うならのり弁当といったところであろうが、それに対してミレちゃんは特上のうな重であった。言い換えれば月とスッポンポン、聖なる輝きを放つ月光と、変態の臭いをばら撒く裸体ほどの差があった。僕たちには、恋人である以外に残された道はないのだ。恋愛はギャップがあればあるほど燃えるものだ。

 左を見ればミレがいる。ちょうど発車するところで、ミレちゃんは窓にかぶりつき外を見ていた。小さな頭の横で二つに結んだ髪の毛がチロンチロンと揺れている。

「これってほんとうに東京行くん?」

 ばっと振り向いてミレちゃんは聞いた。

「おう行くでー。こっから二時間ぐらいのリトルトリップや。あっち行ってから動けるようにな、はしゃぐのもほどほどにしとけよ」

 ミレちゃんはまったく聞いていないようでリクライニングを倒したりコップ置きのくぼみをいじったりしながらニカニカしている。その様子を見ながら僕は、うーむ、上手くいきすぎている、とすこし不安になりミレちゃんに聞いてみた。

「ミレちゃんや。なにゆえそなたは私のような得体の知れぬ者についてきたのかね」

「なにいうてんの」

「なんで俺についてきたん?」

 僕は口調を改めて聞いた。

「なんで、って?」

「ほら、お母さんから知らへん人にはついてったらアカンとかな、そんなん言われてるやろ」

「うん」「うん、て。せやったらアカンのちゃうか? 俺についてきちゃあ」

「でも」

「デモもパレードもないわ、俺やったからいいようなものの」

「でもな、わたしおにいちゃんのこと知ってんで」

「ん?」

「おにいちゃん、けっこう前からウチの家の前とかがっこうの前とかウロウロしとったやろ」

 僕はびっくりして席からずり落ちそうになった。

「なっ……」

「それにお母さんにな、もししらない人につれていかれそうになってもさからったらアカンって言われてんねん」

「なんでや」

「さからったらころされるのが今の世の中なんやってさ」

「うーむ」

 確かに下手に抵抗しないほうが被害は少ないのかもしれない。昔の人質目的の誘拐に比べて、今では純粋に人を殺すために誘拐するというパターンが多い。人質に人質としての価値が無いなら無駄に抵抗しないほうが賢明だろう。しかし母親の言を守っているにしても、一切抵抗せずに誘拐されてしかも楽しそうというのはどういうことなのか。お父さんが忙しくて遊べないからいつも心に寂しさを抱えているのだろうか、はたまた前から僕のことが気になっていて「あの人いかすウ」なんて思っていたのかもしれない、いやいや、もしかしたらミレちゃんは天性の貢がせ女で自分の快楽を達成させるためなら知らんやつにも媚を売るのかもしれない。あれやこれやと考えていたが、どっちにしてもミレちゃんが楽しそうにしていてくれれば何の問題もないのである。

 僕はミレちゃんに話を振った。

「旅行は久しぶりか」

「うん、でもなもうちょっとしたらおきなわ行くねん」

「沖縄かー。ええなあ。俺も行きたいわ。なあ連れてってくれよ」

「いやや。お兄ちゃんキモイもん」

 軽く傷心しながら予想外の出費について考えをめぐらせていた。

 もともとヘゲモニーランドに行くつもりはまったくなかったのだ。しかしミレちゃんを釣るために口に出したら彼女は思ったよりもノリに乗ってきてしまった。余った金でちゃんとした旅行にも行けたろうに。だけど自分の出不精を考えれば、夏のうちに結局どこへも行かないことも容易に想像がつく。毎年のように遠出しようと心に誓うが、むにゃむにゃやってるうちにいつのまにか夏は終わる。かわいいミレちゃんとヘゲモニーランド、いいじゃない。そろそろ警察も動き出すだろう。だが今日のうちは捕まらない自信がある。楽しいことはいくら金を使ってでもやっておいたほうが良いではないか。そうではないか。むにゃむにゃ。夏ははじまったばかりなのに僕はもう終わってしまいそう。だけど僕には知らなくてはならないことがあるんだ。待ってろよ。


 

 

 遊び疲れてみんなは気持ちよく眠っている。いびきの背後からシンシンと雪の降る音が聞こえてくるようで僕はじっと耳を澄ます。山の中のホテル。静かだ。小便がしたくなってやっとの思いでベッドから這い出てトイレへ向かう。トイレのドアを開けようと思い手を伸ばすとノブのところに蜘蛛がひっついていた。赤い蜘蛛。月の光に照らされてくっきりと浮かび上がる。あまりにも寒くて蜘蛛に向かって手をかざしてみた。蜘蛛の体温を感じようと必死に掌に力を込めたが冷えるばかり。ゆっくり手をのけてみるともう蜘蛛はどこかへ行っていた。用を足してベッドに戻ると遠くから人の声が近づいてくる。廊下を歩いているようだ。何かそこらを徘徊するような足音に誘われて部屋の外に出た。動く人影に目を凝らすと高校一年生のときに付き合っていた木村さんとその友達の綾子だった。どちらともTシャツにハーフパンツという格好だった。

「何してんの」

「寝れないからホテルの中探検してるの」

 たいして驚くそぶりも見せずに木村さんは答えた。冷気が顔にしみる。

「いやそうじゃなくってさ、何でここにいるの」

「観光でちょっとね」

「ふーん。最近どうしてんの」

「元気だよ」

「なああっちの椅子あるとこで話そうよ」

「もう帰らなくちゃ」

「帰る? 泊まっていくんじゃないのかよ」

「もう帰らなくちゃ」

「でも外は吹雪だぜ」

 外は吹雪ではない。僕は嘘をつく。

「でも帰らなくちゃ」

「タクシー?」

「うん」

「見送るよ」

 外に出た。外の天気は吹雪に変わっている。駐車場にタクシーがぎっしり停まっていた。

「本当に帰んの?」

「うん」

「そっか」

 綾子が意味深長な目つきで僕を見ている。なんだかがっくりときて木村さんたちを見送らずにホテルに戻った。ベッドにもぐりこんだが眠気がいっこうにやってこない。仕方なくまた外に出て駐車場に行ってみると、まだ木村さんたちを乗せたタクシーは発車していなかった。

 今ならまだ間に合うと思ってタクシーのほうへ駆け出すと後ろから無数の足音が押し寄せてきて僕を通り過ぎていき、次々にタクシーに乗りこみはじめた。女の子の集団だった。これはいかんと思いとりあえず近くのタクシーに乗ろうとドアに手をかけた瞬間、中から女の子がドアを閉めた。手を挟まれて、痛いと唸りつつも木村さんの乗ったタクシーを見るともう消え去っていた。ちくしょうと思い、ドアを閉めた女の子のほうを振り返るとそこにミレちゃんがいた。

 ミレちゃんの無表情な顔が僕の目に焼きついた。

 

 

 はっとして横を向くとミレちゃんの笑顔があった。

「もう東京つくよ」

 だいぶ眠ってしまっていたらしい。まぶたが重い。昨日はあまり眠れなかった。浅い眠りだった。僕は案外小心者だった。今日を計画の実行日にしようと決めたのは昨日の昼のことで、大した理由もなく決めた。もちろん前々から計画はしていたのだが、実行する日は決めていなかった。今日と決めてからは悪いことばっかり思い浮かんできてしまった。自分はポジティブな人間だと思っていたが、人間追いつめられたときが本当の自分だとするのなら僕はネガティブなほうに属しているのかもしれない、そんなくだらないことを延々と考えていて昨日は眠れなかった。

 隣にはミレちゃん。笑顔のミレちゃん。

 僕は久しぶりに泣きそうになった。気づかれないように「暑いな」と言って顔を拭った。

「忘れものないようにな」

「うん何も持ってきてへんもん」

「ああ、せやったな」

 ランドセルは京都駅のコインロッカーに預けてきていた。

 

 東京駅ですこし迷った。もともとヘゲモニーランドに行くつもりはなかったのでなんの下調べもしていなかった。駅員に聞いたら京葉線乗りばまでだいぶ遠いというし、予想していた以上に時間を食う。あっちに着いてもあまり長居はできないなと思った。

 電車はさほど混んではいなかったが、かといって座れるほど空いているわけでもなく舞浜まで二人でドアの前に立っていた。ドアの隣の席に座っていた四十歳くらいの年恰好のおばさんがニコニコしながら、「あなたたち兄妹?」と聞いてきた。

 僕はドキッとした。

「ええ、まあ」

「仲が良くていいわねえ」

 二、三言会話を交わした。動悸が激しくなるのを感じた。

 チラリとミレちゃんのほうを見ると平然とした様子で、窓の外を見ている。僕は緊張しつつも自分だけ気張っているのがバカバカしくなって適当におばさんに話を合わせることにした。

 僕たちが異母兄妹だということ、今は京都に住んでいるということ、妹の母が東京に住んでいるということ、ディズニーランドで久しぶりに妹が実母に会うということ……。

 おばさんは途中の駅で降りるとき、僕たちの身内になったような態度で「いろいろ辛いこともあるだろうけどがんばりなさいよ!」と言った。僕は辛いどころかその実幸せを噛みしめていたわけだけれども、そんな状況はそう長く続かず、おばさんの言う通り辛いこともあるというのは世の中の道理で、近いうちに辛いことがあるというのは自明の理、煙草を吸ったら煙が出るということよりも明らかだった。

 

 

 舞浜に着き僕たちの胸は高鳴っていた。一人は緊張により、一人は喜びにより興奮の最中にいた。僕はさっきのおばさんとの会話でだいぶ緊張が解れていたが、まだまだ油断は禁物だった。先を競い合って入場口へ急いだ。場内からは楽しげな音楽が聞こえてきて甘く香ばしい香りも漂ってきた。チケット売り場に並んでいると人々の間から踊る阿呆、見る阿呆がバラボラとさんざめいているのが見える。なんとも楽しそうなところではないか。平日にも関わらずチケット売り場から行列を作るとはなかなかやりよるテーマパークである。前を見ると恋人同士と推測される男女が手と手を取り合ってアラベスクのように複雑に絡み合い、後ろを見ると家族と推測されるおっさんおばはん餓鬼三名が陰気な顔をしてパックンチョをつつきあっている。やっぱりこりゃあかんわと思った。入場すると中は意外に空いていた。

「どこ行きたい?」

「えーっとねー……」

 ミレちゃんは地図を凝視して体の向きをクルクルと変えた。

「あっち!」

 ミレちゃんが指差したのは、入って右手にあるスペースドリフターンの方だった。スペースドリフターン。宇宙を駆け抜けるアレである。実は過去に一度だけヘゲモニーランドに来たことがあり、そのとき友人に付き合わされて何度も乗った記憶がある。そしてその後ホテルに戻り飲み会に突入した友人たちを横目にトイレに向かって吐き続けたのだった。そうだったそうだった。僕はジェットコースターの類が苦手なのだ。

「あれはやめ……」

「早く! 行こ!」

 ミレちゃんは僕の手をグイグイ引っ張って宇宙船の方へ連れて行った。思えばこれがはじめてまともにボディタッチ言い換えれば肉体接触した瞬間であった。ディープインパクト。丸め込んで鯛。グイグイ引っ張っていくミレちゃんの手はもみじに似ていてひらひらと揺れていたがその力は半端ではなく強烈な欲望に支配されていた。ウは宇宙空間を走り抜けるという生きている間には叶いそうもない願いを疑似体験できるときが来たぞのウ。小さなブラックホールに手首をすっぽり包まれて僕も強烈な欲望に支配されつつあった。胸では半鐘が激しく打ち鳴らされ、リビドーが火達磨になっていた。ミレちゃんは無慈悲な僕の女王様で、僕の存在の根本を鞭でしばき倒す。でも僕はあんまりヤラレっぱなしも癪なものだから、腕を掴む小さな手を自分の手のひらで逆にすっぽりと包み込んでやった。小さなひらひらはしばらく大きな手のひらのなかでカサカサと動いていたが、やがてぴたりと止まった。僕がミレちゃんの顔を覗き込むとミレちゃんは笑いながら「キモイ!」と言ってなおも先へ進んでいった。 スペースマウンテンの前には行列が出来ていた。

「すぐ乗れへんの?」

「うむ、そのようだ」

 最後列には二十代半ばと思われるカップルが並んでいて、僕たちが並んだすぐ後には中学生くらいの男女二組が続いた。ダブルデートというこっぱずかしいものはまだ存在しているんだなと思うと少しうれしくなった。

 待ち時間は六十分となっていたが進み方が早いので三十分くらいで順番が回ってくるだろうと思われた。汗ばんだ手のひらでミレちゃんズ・ハンドを握り締めながら、ふと気になったことを聞いてみた。

「ミレちゃんはケータイ持ってるんか?」

「ううん、もってへん」

 良かった。これでトイレなどふと目を放した隙に両親と連絡をとられる心配はない。しかし現在の時刻は二時近く、おそらく学校側から両親へは連絡が入っているはずだ。ミレちゃんには悪いが時間がない。スペースドリフターンに一回乗ったらヘゲモニーランドを出よう。

「ミレちゃん、たぶんな時間なくてこれしか乗れへんねん。そんでもええか?」

「うんいいよ。他のは乗ったことあるやつばっかりやし」

「ほんま聞き分けええなあ。そんなに聞き分けええならこれ乗るのもやめようや」

「ふーん。なあなあ、うちのクラスのユウコちゃん、こないだドラマに出てたんやで」

 ミレちゃんはあっさりと聞き流した。

「ほーそりゃすごいな。ユウコちゃんて子はかわいいんか?」

「うん。でもな学年でいちばんかわいいのはサキちゃんやねん」

「まあでも日本一かわいいのはミレちゃんやけどな」

 はっとしてミレちゃんを見るとジーっとこっちを凝視している。我ながらキモかったなと恥ずかしくなって視線を逸らすとミレちゃんが言った。

「なあさっきから私のことミレちゃんって呼んでるけど、なんなんそれ?」

「えっ……あっ、しまった。えっとな……それはな、俺の中でちみは……ちゃうわ、いやええんか、君はミレちゃんであって……まあゆうたらニックネームやがな」

「ふーん、ほんまにキモイなあ」

「……まあええわ。めんどくさいからこれからはミレちゃんって呼ぶしそのつもりでな」

 後ろではダブルデートを決行している四人組がぎこちない笑顔で部活や教師の話をしている。どうにかして二人きりになりたいという思惑が見えて牽制しあう空気が流れている。それならば最初から二人でくればよいではないか。

「お兄ちゃんは名前なんてゆうん?」

「ん? 俺か。俺はな貫太っていうんや」

「カンタはなんでこんなことしたん?」

 しばらく「こんなこと」がどんなことなのか考えたが、誘拐のほかに思い浮かばなかった。

「うーん、あんまりこういうことは言いたないんやけどな、ミレちゃんを連れてきたのはミレちゃんのことが好きやから。ただそれだけや」

「ふーん、ごめんやけど、わたしはねーケンスケのことが好きやねん」

「ケンスケ? ……ってクラスの子か?」

 ミレちゃんの手を握る力に変化が出ないように聞いた。

「うん。ずっと席がとなりやねん。ケンスケはやさしいんやでー」

「そうか」

 この話は平常に聞くことができない、僕はそう判断して話を逸らした。

「ミレちゃん、お父さんのこと好きか?」

 子は親を愛するものである、これならばどんな答えだろうとも僕の心が折れることはなかった。

「うーん、お父さんはあんまりあそんでくれへんからきらい」

「ほーそうか、その歳で父親が嫌いなのは珍しいな」

 ミレちゃんの父親は出張が多く日本全国を飛び回っている。一年に一回は海外出張もあり、確かに子供と遊ぶ暇はあまりないだろう。

「沖縄行くって言ってたけど家族で一緒に行くんか?」

「うん! お父さんも行くねん! いろんなトコつれてってくれるって言ってた!」

「そうか。ええやんええやん」

 ミレちゃんと握り合った手を軽く前後に振りながら、僕は小百合のことを考えていた。少女誘拐を決行したこんな僕にも彼女がいる。いや、彼女がいた。小百合はサークルのイッコ上の先輩だった。

 サークルの幹部交代のときに後輩たちでメッセージビデオを作った。要は一年間お疲れ様ということを代わる代わる言っていくだけのビデオだが、僕はその場を利用して小百合に告白した。

 後日、小百合から呼び出されてオッケーの返事をもらいトントン拍子に付き合うことになったのだった。それから半年になる。些細なケンカは何度かしたが、順調と言っても差し支えのない関係が続いていた。そういえばちょうど明日が半年記念日だったかもしれない。今となっては何の意味ももたないが。

 付き合うという状態は確固たる条件を満たした後に生まれてくるものではない。ちょっとかわいいなと思って、「好きだ」と言葉に出して、それだけで付き合うことになることもある。僕は今まで「人を好きになる」気持ちを実感したことがなかった。言葉では簡単に言えてしまう「好き」の二文字が、ずっと僕の心の中で煮凝りのように凝り固まっていた。「好きだ」とトコロテンを搾り出すように告白するたびに胸が疼き、人より愛情が薄いのではないかと考えさせられた。しかし最も忌むべきは、自分が「愛」を知らないことではなく、「愛」を知らないことに対して「それでもいい」と勝手に見切りをつけていることであった。

 僕はほんものを知らずに嘘をついていた。いや、自分が嘘をついているかどうかもわからずに、身をわきまえずほんものに触れようとしていた。

 ミレちゃんと出会ったとき、僕は「ほんもの」を垣間見た気がした。頼りない考えではあるが、僕にとってミレちゃんと一緒になることが避けざる道のように思えた。そしてその道と重なるように、突如もう一本の道が僕の前に姿を現した。もう一本の道は故郷へと続く道であった。故郷までの道が、雨上がりに雲間から射す陽の光のようにはっきりとしたコントラストで僕の眼前に描き出されたのだった。僕のすべてがはじまった場所で「ほんものの愛」をはじめるのだという考えが頭に棲みついて離れなくなった。故郷とは母性の象徴で、母性とは愛の象徴である。そう僕は適当に関連付けて、もしミレちゃんと一緒になったならば先ず故郷を目指そうと決めたのだった。

 小百合には半日かけて別れ話をした。自分でも何をやろうとしているのかわからないのに、それを他人に説明するのは困難を極める。特に他に好きな人が出来たわけでもなく、小百合のことを嫌いになったわけでもないのに別れるということが彼女は納得できなかったようだ。自分が小百合の立場でも納得できないだろう。

 僕はすべて話した。実はずっとストーカーまがいのことをしてきたこと、僕が早寝早起きなのはミレちゃんに合わせていたからだということ、ミレちゃんを攫う計画を立てていること……。

   もはや、気持ち悪いの一言である。自分の恋人が犯罪者まがいのロリコンだったなんて。

 僕は小百合を失った。おそらくもう二度と会うことはない。もしかしたら最愛の人であったのかもしれない。愛を知らない僕は、これまで可能性を漫然と通り過ぎてきたのだ。一発、奮起せねばならぬ。発奮せねばならぬ。すべての可能性にアタックしていかなければならぬ。

 

 

 列は室内へと入った。宇宙を模した暗い空間でモニター画面がなにやら喋っている。どうやらこれから乗るアトラクションにストーリーを付加させるためのものらしい。もちろん僕とミレちゃんはそんなものおかまいなしに手と手をつないで愛を確かめ合っていた。しかし愛を知らない僕は勘違いして性的オサワリを勝手に繰り広げていた。繋いだ手をきつく握ったり、柔らかくほどいて手のひらをこしょばしたり、手テクを最大限に使ってミレちゃんを楽しませようとした。ミレちゃんはキャハハと笑い、僕はウヘヘヘと惚けた顔をしていた。キャハハウヘヘヘとよろしくやっていたのだが、しばらくして列の後方から僕たちに向けられている強烈な視線を感じた。はっとしてそちらを向くと、三十代半ばくらいの年恰好をした男女のカップルがいた。男はギョロッとした目をしており、立派な眉毛と髭をもち、夏だというのに緑色の毛のジャケットを着て、頭には茶色い山高帽をかぶっていた。女のほうは男とは対照的に顔のパーツが全体に小ぶりで童顔だった。童顔の女が歳をとったときに出てくる、特有の色気を放っていた。白地にところどころ赤いマーブリングのような模様が入ったワンピースを着ていた。

 男は僕と目が合うとすぐに微笑した。けれども僕は見逃さなかった。微笑に変わる前、男の顔は酷く歪んでいた。世の中のものすべてを欲しているような欲深い印象だった。目も鼻も口もてんでばらばらアンバランスに顔面に漂っていたのに、微笑した途端にすべてが持ち場へと戻り、自然な顔面になった。仮面のような顔面である。僕はすぐ目を逸らした。

 ミレちゃんがけげんそうな顔で覗き込んでいたので僕はなんでもないよと言って、性的オサワリの続きをはじめた。しかし後ろの男が気になって手先の運動が疎かになってしまう。今見た光景は本当に起こったのか? 顔のパーツが勝手に動くなんて。僕は恐怖を覚え始めた。途方もないプレッシャーが圧しかかってきた。もしかしたらあいつは警官かもしれない。いや、まだここまで手がまわってきているはずがない。あいつの顔がただ不吉なだけだ。きっと寝不足と緊張のせいで疲れているんだろう。それで幻覚を見たんだ。

 あれこれ考えをめぐらせるうちに手の運動が疎かになって、いつのまにかミレちゃんの声も「キャハハ」から「キャハ」へと変わり、いつのまにか「キャ」になって、気づいたときには「キャッ」と言って僕の手から手を引き剥がしていた。

「痛い!」

 どうやら考えに集中するあまり手を強く握りすぎていたらしい。「ゴメンゴメン」と言ってまた手を差し出したが、ミレちゃんはしばらく警戒した様子で僕の顔を伺っていた。僕がもう一回「メンゴ」と謝ると、そっと小さな手を僕の手に重ねてきた。 僕は後ろの二人を意識から消すことにした。限られたミレちゃんとの時間をつまらないことに奪われたくはない。

「ねえ! 見て見て!」

 ミレちゃんの指差す方向を見ると、現代科学技術の結晶であるエンターテインメントマシーンがどんどん行列を消化している。戻ってくるマシーンから降りてくる人々の顔を見ると、ニヤニヤしている者あり、放心している者あり、眉間に皺を寄せている者あり、泡を吹いている者ありと乗客たちの反応は多様である。確かこれは並のジェットコースターよりは怖くなかったはずだ。大丈夫大丈夫。僕は自分に言い聞かせた。

「カンタ、だいじょうぶ?」

「おう……だいじょぶだあ」

 大丈夫だといくら言い聞かせても、僕の意思とは裏腹に、以前乗ったときの不快感が喉元にせりあがってくる。それにさっき見たあいつの不吉な顔。全身にじっとりとかいていた汗が急激に冷えていくのがわかった。酒を飲みすぎて吐きそうなときの気持ち悪さに似ている。ミレちゃんが心配そうな顔でこっちを見ている。

「あー楽しみやなあ。もうすぐやで」

 これ以上頼りないところを見せるわけにはいかない。僕は元気なフリをした。

 列は進んで係員のところまで来た。係員の言われるがままに何列かに並びなおしてプラットホームに戻ってくるマシーンを待った。二列ほど離れたところにさっきのカップルの気配を感じたがなるべく見ないようにした。

 ガコンガコン、という音がして、極めて暴力的な制動でマシーンが入ってきた。係員の指示に従い、降りる客と入れ違いにマシーンに乗り込んだ。

「ふふふっ」とミレちゃん。

「へへへ……」と僕。

「はやくっはやくっ」

 ミレちゃんは息を弾ませて出発進行を今か今かと待っている。僕がミレちゃんにギッコリ笑いかけると、渇いていた唇が切れて血が垂れた。Tシャツの袖で血を拭った。僕とミレちゃんの体は太いアームでホールドされ、マシーンは、ガクンッ、という音とともに前方へ滑り出した。もう止まらない。これは途中下車が許されない旅だ。僕の性質から最も遠いにもかかわらず、踏み込んでしまった道。乗り切るには体力が必要だ。せめて昨日くらいはもっと寝ておけばよかったなあ。寝不足でことに望むのはクレバーじゃない。そういえば田原の口癖は「クレバーじゃない」だったな。あいつの口癖が移るなんて嫌だなあ。そう考えるうちにも強烈な睡魔と吐魔が猛ダッシュで駆け寄ってくる。あとすこし……あとすこしで……スタートだ……。

 マシーンは宇宙へ突入し、僕は暗闇へ落ちていった。


 

 

「おい! 大丈夫か!? ……おい!」

 誰だ。

「お珍、とりあえずその子を車に連れて行け。あとから行く」

 不吉な顔。

「……カンタ! だいじょうぶ!?」

 愛しい人。

「大丈夫。あとであのおじさんが連れてきてくれるから。ねっ。行きましょう」

 艶やかな声。

「君! 大丈夫か?」

「……はい。でも、ちょっと寝かし……ンガアアア、スピー」

 

 

 木目。同じ模様が連なっているようで、しかし僅かにずれていく。天井の木目から壁に沿って視線を落としていくと本棚が見えた。色とりどりの背表紙。ずいぶん雑然とした並べ方である。

「気がついた?」

 声の方を見るとあの童顔の女がいた。

「……っていっても寝てたんだもんね。大丈夫だよね」

 女は僕の傍らで本を読んでいたらしく、本をテーブルに置いて眼鏡を外した。額にはうっすらと汗が光っている。

「あの……僕は……えっと、ここは?」

 女は前髪をかきあげながら答えた。かきあげた右手の、横っちょの腹のところに黄や緑の色が付着していた。

「ヘゲモニーランドで倒れたことは覚えてる?」

「ええ、まあ。なんとなくですけど」

「あっ、ちょっと待ってて」

 そう言うと女は立ち上がり、奥の台所らしき部屋へ消えた。

 中途半端なところで話を切られたので、手持ち無沙汰に周りを眺めた。今いる部屋は和室で窓には縁側が連なっており、開け放たれた窓からは夏の陽射しに照らされた雑多な花々が見える。奥の生垣の上には青空が続いている。家の前はすぐ道路になっているようで行き過ぎる車の音が聞こえてくる。振り返って家の中を見渡すと、和室と台所は廊下を挟んでおり、廊下が左右に続いているからこの和室の他にも何部屋かあるらしいということがうかがい知れた。ごちゃごちゃした色彩の本棚を眺めているうちに、なにか重要なことを忘れているのではないか思った。とても重要なこと。ヘゲモニーランドで倒れて……。

「ひゃっ」

 僕はあまりのことに驚いて奇怪な声を洩らしてしまった。

 ――ミレちゃんは?

 周りの景色を心の中で描写している暇があったのに、なぜ僕はミレちゃんを忘れていたんだろう?ひと眠りしただけで一番大事な人を心から消してしまった。なんてことだ。ミレちゃんを忘れていた。僕が今一番拘らなければならないこと、それがミレちゃんであるはずなのだ。

 何故ミレちゃんのことを忘れたのか。

  極めてショックであった。

 女がお盆を持って和室へ戻ってきた。僕は慌てて聞いた。

「ミレちゃん……ちみちゃんはどこです?」

 女はゆっくりとした動作でテーブルにお盆を置きながら答えた。

「ああ、妹さん? ちみちゃんなら今スギエと海岸に行って遊んでるわ」

「妹? スギエ? 海岸? ……」

 女は湯呑をひとつこちらに寄越して、笑いながら言った。

「二人で東京に来たんだってねえ。お兄ちゃんが連れてきてくれたんだって嬉しそうに言ってたわよ。スギエっていうのは私の同居人。一緒にここに住んでるの。あなた、ヘゲモニーランドですこし喋ってたみたいだからスギエの顔はわかるでしょ? 海岸っていうのはこの家の前のことよ。道路を挟んですぐ海岸になってるの。あとで行ってみるといいわ」

「はあ」

「あっ私の自己紹介がまだだったわね。私はお珍っていうの。あなたはカンタ君、だったかな?」

 一気に話されたのですこし面食らっていたがとりあえず僕はお礼を言った。

「ええ、藤里貫太っていいます。助けてもらったみたいで、なんと言ったらいいのか……。とにかくありがとうございます。寝不足で激しいのに乗ったもんだから気分が悪くなっちゃったみたいで」

「いいのよ。私はなにかの発作かもしれないから救護所に連れていこうとしたんだけど、スギエがウチのほうが近いだろうって。ごめんね、誘拐みたいなことしちゃって。まあ確かにヘゲモニーランドから車で十分くらいだけどね。それにしたってウチのほうが近いってことはないわよね」

 お珍と名乗った目の前の女は微苦笑しつつ髪をかきあげた。手の横の色彩がちらちらと舞った。その仕草が胸に食い込んでくるほど艶やかだったので、僕は曖昧に笑って目を逸らした。しかし目を逸らした先にもワンピースから覗いた膝があって、僕はさらに本棚へと目を遣った。改めてよく見ると、本棚に並んでいるのは薄っぺらい本ばかりだった。まじまじと見ているとお珍さんが横から声をかけた。

「ごちゃごちゃしてるでしょ? 私が雑な性格だから」

「えっ、いや、色とりどりでキレイだなと思って」

 そう言うとお珍さんも本棚のほうに向き直った。

「これ全部私とスギエが作ったのよ」

「えっ、そうなんですか?」

「ええ、私たちは絵本作家なの。スギエが文章で私が絵。一緒に住んでるほうが楽だからってことで同居してるのよ」

 これだけの冊数を出版しているとしたら相当有名な人たちなのだろう。僕は生憎、絵本業界に詳しくないので二人の名前を知らなかった。僕は強引に話題を戻した。

「あっ、ちみの奴海岸にいるんですよね? ちょっと急いでるんで連れ戻してきます。僕たち、行かなきゃならないところがあって、あんまり時間がないんですよ。これ以上迷惑かけちゃいけないし」

「あら、そう。せっかくなんだから夕食食べていきなさいよ。お腹空いてるでしょ?」

「いやホント、これ以上迷惑かけるわけにはいきません。目的地にも間に合わなくなっちゃうし。本当にありがとうございました」

 僕はそう言うなり立ち上がって和室を出た。廊下を右に出ると玄関が見えた。その手前の右手にひとつ部屋があって、そこはスギエという人物の書斎であるらしかった。開けっ放しのドアの隙間から整然と並べられた家具と書籍が見えた。

 

 

 僕は玄関の引戸を勢いよく開けて外へ出た。 日はヘゲモニーランドにいたときよりもだいぶ傾いていて、粘着質な暑気が体を覆った。おそらく午後四時は過ぎているだろう。玄関を出るとガレージがあった。そこには赤いローバーミニがとまっていて、なぜかあの山高帽の男の不吉な顔が思い出された。僕の心の中でもうすこしで完成しそうだったパズルが、男の顔のようにバラバラになりつつある。そんな感覚を抱きながら僕は海岸へと向かった。

 家の前の道路は案外交通量が多く、なかなか渡れなかった。二、三度轢かれかけて漸く横断に成功した。道路の向こう側には堤防がそびえ、堤防の階段を昇るとそこには果てしない太平洋が広がっていた。どこか懐かしい潮の香りが鼻を突いた。いつもなら見入ってしまいそうな壮大な風景も、今は僕の不安な気持ちを押し広げるだけだった。

 ――ミレちゃんはどこだ。

 海水浴場ではないのでさすがに泳いでる人はいなかったが、砂浜にシートを敷いて寝転んでいるカップル、ズボンを捲り上げて水遊びをしている若者、犬の散歩をしている老人など、夏の海辺らしくそれなりに賑わっていた。堤防の上から眺めた限りではミレちゃんとスギエの姿は見当たらなかった。僕は砂浜を、おそらく北の方角だと思われるほうへ歩き出した。

 高校生だろうか。数人の若者がシートの上に寝そべり、半裸で日光浴をしていた。夏の間にできる限り肌を黒く焼きたいのだろう。自分を変えたいと思ったとき、外見から変革していくというのはなかなかいい方法である。じろじろ見ていたら若者の一人が気づきガンを飛ばしてきたので目を逸らした。果たして僕は周りからどのように見えているのだろうか。着倒してヨレヨレになったティーシャツ、年中履いていて穴だらけになったジーンズ、安売りで買った大手スポーツメーカーのスニーカー。汚い、カッコ悪い、臭い、金玉野郎、4Kを地で行くような格好である。そりゃあミレちゃんもキモイキモイと連呼するわなとようやく納得した。しかし今は、自分のキモサ加減を苦笑しながら納得している場合ではなく、ミレちゃんを一刻も早く見つけ出して先を急ぐ場合だった。ざっと見渡すと、砂浜は三百メートルくらい先まで続いており、端っこのほうにいる人は姿格好の判別が困難であった。しかし、山高帽のギョロ目男と絶世の美少女のコンビはすぐ見つかるはずである。と考える間もなくミレちゃんが僕の目の中に飛び込んできた。

 ミレちゃんとスギエは人の波が少し途切れた波打ち際でじゃれあっていた。ミレちゃんが海水をバシャバシャとスギエに向かって放ち、スギエはわざと水を被っておどけた表情を見せていた。その様子は、なんとも楽しそうであった。なんとも幸せそうであった。僕の足は止まった。足というよりも全身が絶望に捕われた。まるで大岩を背負って海に身投げするときのような絶望感が僕の時間を止めた。ミレちゃんは笑っている。しかしそれは僕に向けられたものではなく、スギエに向けられたものであった。スギエと水遊びをするのが面白くて、その面白さ、楽しさを外の世界へと知らしめるための笑顔であった。この半日の間、二人だけの閉じられた世界で育んできた愛が、脆くも崩れ去っていくのを感じた。今、ミレちゃんを連れ戻すことは僕にはできない。僕は踵を返して、来た道を戻った。

 帰る途中でさっきガンを飛ばしてきた奴がまたこちらを睨んでいることに気づいた。僕はやり場のない怒りを感じ、憤怒の形相でそいつを睨みつけた。そいつは僕の視線を受けると、睨みを解いて、片方の口角を吊り上げてせせら笑いを浮かべた。僕はますます腹が立ってそいつの方に足を踏み出しかけたが、次の瞬間には頭の中に自分がボコボコにされている絵が浮かんで、そいつに背を向けて歩き出していた。背後で数人の若者の笑い声が響いた。僕は足早に堤防の方へと戻り、階段に腰掛けてしばらく太平洋を眺めていた。海は想像以上に汚かった。

 

 

 お珍さんの家に戻ったが、家の中には入らず庭の方へ回って縁側に腰掛けた。頭がぼうっとする。ごろっと横になって空を見つめた。空はオレンジに薄く染まり、網の目状の雲がところどころに浮いている。海から潮風が吹いて、僕の髪の毛を揺らした。潮の香りに混じって香ばしい肉の匂いが鼻に届いた。

「あら、戻ってきたの」

 お珍さんが手を拭きながら和室へ入ってきた。クリーム色のエプロンが良く似合っている。エプロンの先にある白い脚をちらっと見てから、再び空を見た。

「この海岸を散歩するのが日課になってるの。スギエも私も。スギエは一日に何回も行ってるみたいだけど」

 お珍さんはエプロンを外してテーブルの上に置いた。

「スギエはね、子供が好きなのよ」

「……はあ」

 お珍さんがテーブルのところに座ったので、僕も落ち着かなくなって、適当に相槌を打ってから体を起こした。お珍さんは笑いながら続けた。

「っていってもロリコンとかじゃなくて単純に子供が好きなの」

 そう言ったお珍さんの表情は笑いながらもどこか哀しげだった。僕は何と言えばいいのかわからず、次の言葉を待った。お珍さんは予想外に明るく言葉を継いだ。

「まあでも、子供好き以上にすごい女好きだから今頃ちみちゃんのことも口説いちゃってるかもね」

 この言葉は今の僕の心境に対して少なからずダメージを与えたが、話の調子を合わせるため、わざとテンションを上げて喋った。

「いやあ、ちみも楽しそうだったんで声をかけづらくて。とりあえず戻ってくるまで待たせてもらっていいですか? 僕たちも普通に会話するようになったのはつい最近なんですよ。ちみのやつ、昔は口すら利いてくれなくてね。今はキモイキモイって言われてますけど会話してくれるだけマシですよ」

「そうなの? とっても仲が良さそうに見えたけど。さっきも本当に心配してたわよ」

 だからこそ余計ギャップが辛かった。僕が倒れたときは本気で心配してくれていただろうが、今さっき見た限りでは、完全に僕を忘れていて、その様子は無邪気に楽しんでいる以外の何者でもなかった。しかもその前に僕もミレちゃんを意識から消していたのだ。二重の鞭が僕をシバいた。

 僕は力なく笑うしかなかった。気が抜けたのか、笑うと同時にお腹がぐうと鳴った。恥ずかしかったが、なにかすこし吹っ切れた気持ちになって言った。

「……すみません。この期に及んで図々しいんですけど、晩御飯をご馳走になっていってもいいですか?」

 お珍さんはしばらく僕をじっと見てから、突然ハッハッハッと笑い、そしてすぐに真顔に戻ってアッと言った。

「ステーキ! 焼いてたのよ、焦がしちゃったかも」

 お珍さんは早口でそう言うと、台所へと駆けていった。

 

 

 奇妙な食卓である。

 まず台所に置かれたテーブル自体が正方形である。我が家では長方形のテーブルに慣らされてきたので、これが奇異に映る。各人が等間隔であるというのは、何か背中を百足が這っているような気持ち悪さを感じてしまう。正方形の各辺に座る人物たちもまた奇妙である。僕からしてみれば全員、今日はじめて会話したばかりの赤の他人なのだ。まだ僕の右側に座っているミレちゃんとは、一方的であるにせよ二年の付き合いがあるからいいが、正面に座っているのはスギエである。この男は、顔面がごちゃごちゃに変幻する得体の知れない男で、さらに僕からミレちゃんを奪わんとする心許せぬ者である。スギエは先程からギョロ目を左右へと間断なく往復させお珍さんとミレちゃんの様子を伺っている。まるで僕が目に入っていないように振舞っている。胸糞悪い。お珍さんはお珍さんで、食べ盛りの子供みたいに料理をがっついて食べていた。見ていて痛快なほどの食べっぷりだったが、普通、客を招待した側はそんなにがっつくものではないので、これも奇妙といえば奇妙であった。一方ミレちゃんは、明らかに楽しそう嬉しそうな表情で料理に向かっていた。ミレちゃんにとっては、大人数で食卓を囲むこと自体、特別なことに感じられていたのかもしれない。ミレちゃんの家では母親と二人きりの食事がいつもの風景であった。

 食卓に上っている料理もどこかバランスを欠いているように感じられた。白飯、味噌汁、少々焼きすぎて固くなったビーフステーキ、かぼちゃの煮物、明太子、キスのフライ、うなぎの蒲焼。まったく一貫性が感じられない。どれがメインディッシュなのかもわからない。

 そんな食卓を囲んで、珍妙な四人が四者四様に口をもぐもぐと動かしていた。

 ステーキを平らげたところで僕は言った。

「さっきお二人の書かれた本を見ていてちょっと気になったんですけど、お二人は結婚していらっしゃるんですか?」

 お珍さんとスギエの二人は示し合わせたようなタイミングでピクッと反応し、ゆっくりとこっちを見た。

 夕飯が出来上がる前、絵本が並んだ本棚を見ていたら、すべての本の作者の部分が『スギエ・ダムラ 文 × 杉江珍美 絵』となっていることに気づいた。スギエ・ダムラという意味不明な名前にも苛々としたが、それ以上に、お珍さんほどの魅力的な女性が不吉なスギエと結婚しているのであろうということが僕の心に引っかかった。お珍さんがスギエのことを同居人と紹介していたことも気になった。

 この質問にはお珍さんが答えた。

「正確には、していた、って言ったほうがいいわね」

 これを受けてスギエ氏が続けた。

「私たちはね、離婚したんだよ」

 スギエが屈託なく笑いながらそう言ったので僕は動揺してしまった。視線を落とし、反省した体で言った。

「すみません。なんか込み入ったことを聞いちゃって」

「いや、いいんだよ。別に私たちはそのことを気にしちゃいないからね。円満に別れたのさ」

 スギエはのっそりと立ち上がると換気扇の下へと移動し、ジャケットの胸ポケットから煙草を取り出し火をつけた。その様子を目で追いながらお珍さんが言った。

「一緒に暮らしていて結婚も離婚もないんだけどねえ。仲も今まで通りだし。名前も杉江で売ってるから変えるのが面倒臭くて」

 お珍さんは明太子を口に運びながらスギエに向かって言った。

「ちょっと、煙草なんて吸ってないでお茶でも淹れて頂戴」

「ああ、今、お茶を、淹れるよ」

 スギエは煙草の煙を見つめたまま答えた。僕はスギエのことをなんとなしに見ていたが、次の瞬間びっくりして米を噴き飛ばしそうになった。またあの変化がはじまったのだ。スギエの目は元在った場所からだんだんずり落ちてゆき、口の横まで到達した。口は歯を剥き出しにして笑っていた。鼻もゆっくりと回転して鼻の穴が真上を向きそうになっている。お珍さんとミレちゃんの様子を伺うとスギエの変化に気がついていないようだった。もう一度スギエに目を移すとすでにこちらに背を向けてお茶の準備にとりかかっていた。

 僕は後悔した。さっき無理矢理にでもミレちゃんを連れ戻して目的地へと急ぐんだった。この男はやはり僕たち二人に災厄をもたらす者である。この怪物の館から一刻も早く抜け出さなければならない。お珍さんはともかく、スギエ・ダムラは何かを企んでいる。それも僕とミレちゃんの間をずたずたに引き裂く何かを。

「ごちそうさまです。やっぱりもう行きます。いろいろお世話になりました。ミレちゃん行こう」

 付け入る隙を与えないように早口で感謝の意を述べてから、まだ口の中でステーキを咀嚼しているミレちゃんの手を取り、玄関のほうへ向かおうとした。しかし、隙を見せず虚を突いたつもりであったのにも関わらず、スギエはすべて予期していたかのような俊敏な動きで僕とミレちゃんの間に割って入り、繋いでいた手と手を引き剥がしてしまった。その乱暴な動作に、驚くよりも先に頭にきて大声を張り上げた。

「何するんですか!」

 スギエはミレちゃんを席に座らして肩に手を置いたまま言った。

「まだちみちゃんが食べているだろう。それに今お茶を淹れるから飲んでいきなさい」

 有無を言わさない態度だった。ミレちゃんは何が起こったのか必死に見極めようとして僕とスギエの顔を交互に見ている。今までこのような険悪な空気を感じたことがない様子で困惑した顔を浮かべている。ミレちゃんを見ていたら、荒々しい気持ちが殺がれた。僕はゆっくりとスギエに近寄り、ミレちゃんの肩に置かれている手を振り払ってから椅子に座った。スギエはそれでいいのだという風に深くうんうんと頷いた。

「ごめんね。久しぶりにお客さんを迎えてスギエも嬉しいのよ。それにそんなに急いだって得することはないわよ。二人とも若いんだから余裕をもって生きなくっちゃ」

 傍観していたお珍さんが言った。腐った目をしていた。

 さっきまでお珍さんに魅かれていたのに、スギエと同じ臭いがお珍さんの心の奥底から漂ってくるのを嗅いでしまったような気になって僕は悲しくなった。それに若いからこそ、余裕なんて持っている場合ではないのだ。

 スギエが湯呑みにお茶を注いだ。ドンッと僕とミレちゃんの前に湯呑みが置かれた。

 湯気がもうもうと立ち上り眼前の光景をぼやけさせる。「さあさあ」というスギエとお珍さんの声が聞こえてくるようで僕たち二人は湯呑みを手にする。お茶をぐいっと一口飲むと、なにか胃のあたりに火の灯ったような感覚がする。しかし、もしかしたらそれは火がかき消された感覚なのかもしれない。それらの感覚は似たようなものであるからどちらだとしても大して問題はない。湯気の向こうにスギエが顔面から雪崩のごとく原形を留めず崩れ落ちてゆくのが見える。お珍さんに目を遣ると曖昧な輪郭が膨らんだり萎んだりしている。ミレちゃんのほうを見るといつのまにか僕との間に谷が出現している。断崖の向こうにいるミレちゃんはどのような顔をしているのだろうか。まったく見えない。目を凝らしても見えるのは白い靄だけだ。僕は急に不安になり叫ぶ。ミレちゃーん。ミレちゃーん。返る声はなくいつのまにか自分の立っている足場すら見えづらくなっていることに気づく。気づくという白々しい行為によって白い靄がもはや僕自身をも飲み込もうとしている状況を見つける。僕はまた叫ぶ。ミレちゃーん。きむらさーん。さゆりー。おちんさーん。誰でもいいから返事をしてくれ。不安が増大して靄とともに僕を包む。ミレちゃーん。今すぐここに来て僕を抱きしめてくれ。誰でもいい。誰でもいいんだ……。僕は空中を手で掻く。無我夢中で白い靄を振り払おうと試みる。しかし動けば動くほど白い靄に粘り気が出てきて体にまとわりついてくる。なんて不快な靄だ、このやろう。誰かいないのか。もはや息をするのも困難なほどだ。疲れて手を動かすのを止めようとしたとき目の前の白い靄のなかにうっすらピンク色の輪郭が浮かんだ。これを逃すわけにはいかない。僕は残りの力を振り絞って右手を伸ばし、ピンク色の輪郭を掴んだ。

 

「あら随分豪快なのね」

 目の前にお珍さんがいた。全裸だった。見ると僕の右手ががっちりとお珍さんの左乳房をキャッチしている。完璧なる乳房である。握りつぶしていてもその威厳はすこしも損なわれていない。僕はぎゅむぎゅむと握った。

 僕も全裸であった。僕の男根はお珍さんの右手によってグワングワンにピストンされていた。完璧なる男根ではないが、完璧なる勃起であった。僕は完璧なる乳房を舐めまわしてやろうと思い顔を近づけた。しかしお珍さんの乳に乳輪はなく、乳輪のあるべき場所に目があった。こちらをじっと見つめている目に気づき、僕はギョッとして後ろへ飛びのいた。お珍さんの顔を見ると本来目のある場所が乳輪と乳首になっている。「なんちゅうこっちゃ。こんなメガネを取ったのび太みたいな目をした奴にシゴかれていたなんて。チンチンの神様、チン神様にシバかれる」というようなことは考えず、僕はただ呆然としていた。さっきまでお茶を飲んでいたはずなのにどういうことだろう。なぜ裸でこんなことをしているんだ。ミレちゃんはどこだ。そう漠然と思う一方で、自分の意思とは関係なく怪物に成り果てたお珍さんの体にムラムラとしていた。頭がボーっとして再び世界から落ちそうになった。

「ミレ、妹はどこです? なんでこんなことを」

 お珍さんは乳の目を細めてカラカラと笑った。

「あなたたち兄妹じゃないでしょう」

「な、何言ってるんですか。完璧なる妹ですよ」

「あらあら完璧って言葉は私の乳房のことを言うときに使うのよ」

 乳の目がウィンクした。

「さっきあの子の靴を見たら《川端ちみ》って書いてあったわ。あなたの名字は藤里でしょ。顔も全然似てないし。バレバレよ。誘拐でもしたんじゃないの?」

 返す言葉がなかった。

「まさか図星? ホホホホホ。わかりやすいわねえカンタ君は。何よ、その目は? 私は別に警察に言ったりしないわよ。私に付き合ってくれればね」

 くそっこいつは身体のトランスフォーメーションだけでは飽き足らず、脳のトランスフォーメーションもしてしまったようだ。もしかして目の前にいるこの怪物はお珍さんではないのではないか。こんな急激な変わりようはおかしすぎる。

「ミレちゃんをどこにやったんですか?」

「ミレちゃん? ああカンタ君はそう呼んでるのね。あの子は今頃スギエと乳繰り合っているんじゃないかしら。私とカンタ君がやっているみたいにね」

 お珍さんの衝撃的な言葉によって僕の血管がぶち切れそうなほどに膨張していくのが感じられた。

「お珍さん……あなたたちは最初からそのつもりで……」

 お珍さんは答える代わりにケラケラと笑った。まだボーっとしている僕の頭の中で、怒りと混乱が互いに地獄車を掛け合っていた。今すぐ立ち上がってスギエをはっ倒しに行けばいいのか。そうしようにも体が言うことをきかない。性欲だけが異常に溢れてくる。このような状況になっても相変わらず男根はビンビンに勃っていた。くそっ、忌々しい男根だ。とりあえずこんな全裸ビンビン状態ではスギエの元に乗り込むことが出来ない。僕は服を着ようと思い、辺りを見渡した。薄暗い部屋の中をよく見るとここは絵本の本棚がある和室だった。布団の上からはお珍さんが笑みを浮かべ色気たっぷりの眼差しを送っている。目は所定の位置へ戻っていた。

「服はどこですか?」

「服なんてどうだっていいじゃない。それにそんなおっ立ててたんじゃ服も着れないでしょう」

 そう言うか言わないか、次の瞬間には僕の男根はお珍さんの手のひらの中に収められていた。

「うぐっ……」

 手は男根を掴んだまま、お珍さんは体をすり寄せて来て耳元で囁いた。

「ヤリたいんでしょ? カンタ君も」

 ヤリたかった。ミレちゃんを助けに行かなければならないが、完璧な乳房を前にしてこちらも捨て難いと思っていた。お珍さんの手の動きが激しくなり、首筋を舌が這う。

「スギエが浮気性でね」

 お珍さんが耳に甘い息を吐きかけながらゆっくりと喋りだした。

「この家に私の知らない女を連れ込んでいたのよ。私はすぐに離婚を切り出したわ。スギエも最初は渋ってたけど、離婚してもいいからこれからも一緒に住もうって言ってきて。私も仕事があるから条件を呑んだの。だけどスギエは離婚したあとも毎日のようにどこからか違う女を連れてきた。勝手な奴でしょう? こっちの気も知らないで。モラルってもんが無いのよ、あいつには。私も離婚したんだから関係ないんだって自分に言い聞かせてたんだけど、ある日スギエは私の体も求めてきたわ。呆れて、もうどうでもよくなっちゃった」

 お珍さんは僕の性器を使ってクリトリスを擦りはじめた。

「それからはスギエも私も何でもアリ。海に来てる高校生を連れ込んだり、隣に住んでる夫婦と4Pしたり、常にスギエと二人で獲物を探すようになったわ。最近はヘゲモニーランドに行って子供を漁るのが楽しくってねえ、年間フリーパスまで買っちゃったの、すごいでしょ、ねえ、もともと子供が好きで絵本なんて書いてるんだからムラムラしちゃうのも当然よね。子供は誘拐だなんだって警戒されるけど、その分スリルがあっていいわ。さっきあなたたちに飲ませた薬、お茶に混ぜたんだけど、あれが効いてるでしょ、ねえ、ボーっとしてるんじゃないの? あれはスギエスペシャルっていってスギエが我が家で調合してるのよ、すごいでしょ、ねえ、気持ちいいでしょう」

 喋るうちにお珍さんの体は溶けていくようだった。表面にヌメヌメとした光沢が出てきている。これも幻覚なのだろうか。飲まされた薬による効用なのだろうか。僕はこめかみを揉んでハッという大声を出して自分に活を入れ、男根をお珍さんから引き離した。意識を研ぎ澄ましてミレちゃんのことだけを思った。

「ねえ、あなたもしたいんでしょ、ねえ、ねえ」

 お珍さんが手を伸ばしてくる。

「うるさいっ」

 と言ってから、お珍さんの顔を叩いてやろうと思って男根をスイングさせた。しかし思ったよりも僕の男根は短かったようでお珍さんの顔の手前を素通りした。

「キャハハ、ねえ、ねえ、はやくっ、はやくう」

 ミレちゃん。ミレちゃん。

 僕はお珍さんを無視して服を探した。服は本棚の陰に隠されていた。服を急いで着て廊下に出た。股間がモッコリしていた。スギエの書斎と思われる部屋から光が漏れていた。ミレちゃん、今助けに行くぞ。僕は勢いよくその部屋のドアを開けた。

 驚愕の光景。

 僕はドアを閉めて和室に戻った。部屋の隅に置かれた自分のリュックサックの中から手裏剣を取り出し、「ねえねえ」と虚空に向かって話しかけるお珍さんを横目に、再び和室を出てスギエの部屋の前に立った。深呼吸してから僕はドアを勢いよく開けた。

 薄暗い部屋の真ん中に、ドアのほうに体の正面を向けて立ち膝で立っているスギエがいた。ミレちゃんはスギエと向かい合って、僕に背を向けて立っていた。ミレちゃんの表情は見えない。

 スギエは目を瞑り恍惚とした表情を浮かべている。二人とも全裸であった。ミレちゃんだけ靴下を履いている。スギエは両手でミレちゃんのツインテールの髪の毛をそれぞれ掴み、その先っちょで自分の乳首を刺激していた。僕は怒りに震え手裏剣を握り締めた。

「おい、てめえ」

 スギエがこちらに気づきゆっくりと目を開けた。ギョロ目がぐるぐると回っていた。スギエは焦点が定まらない様子で顔を小刻みに揺らしていた。ミレちゃんの髪の毛は掴んだままだった。

「おお、誘拐犯、どうしたんだ」

「なにやってんだよ。今すぐ手え離せよ」

「勇ましいねえ。お珍とのファックはもう終わったのか?」

「早く手離せって」

 スギエは一向に手の動きを止めない。

「誘拐犯、お前もやるか? 気持ちいいぞ」

 怒りが全身から噴出するのを感じた。僕は思いっきり手裏剣を投げつけた。手裏剣はミレちゃんの肩先を通り過ぎ、トンッという音とともにスギエの額のど真ん中に刺さった。ウッと声を出してスギエは両手で額を押さえた。指の間から手裏剣が零れ落ちて床に刺さった。

「ミレちゃんっ」

 僕はミレちゃんに駆け寄り抱きしめた。目の前に悶絶するスギエの額があり、パックリと割れた傷口が見えた。まるで女性器のようだった。僕は足元に落ちている衣服を掻き集めミレちゃんに被せた。

「行こう、ミレちゃん。こんなところ早く出よう」

 ミレちゃんは意識があるのかないのか何の反応もしなかった。僕はミレちゃんの手をガッチリと握って部屋から連れ出した。ドアのところで振り返ってスギエを見ると、屈んだ姿勢のため、股間から屹立した馬並みのペニスが額に付きそうになっていた。そうだ、そのまま頭を貫けばいい。身から出たチンポで自らを貫きやがれ。

「このウマヅラハギがっ」

 僕はそう言い捨てて、和室に戻り、ミレちゃんに服を着させてリュックサックを背負って外へ出た。和室にいたお珍さんは全身が弛緩しきった様子で白痴的に座っていた。

 

 

 外に出るとちょうど夜がはじまるところだった。まったく地理がわからないので、とりあえずヘゲモニーランドが見えるほうとは逆に歩き出した。ヘゲモニーランドの上空だけなぜか赤い色に丸く染まっていた。デッパーキングの人気を妬んだ他の遊園地のキャラクターたちが同盟を組んで爆弾を投下しているのではないか。そんなことをちらと考えた。

 ミレちゃんの目は虚ろで握り締めた手からは火照りが伝わってきた。しばらく歩くうち僕の目から涙が溢れてきた。どくんどくんと涙が零れ落ちてゆく。それはほんものの涙だった。自ら泣くように仕向けて流した涙ではなく、自然に零れ落ちてくる涙ははじめてだった。何が悲しいのか、何が悔しいのか、何を失ったのか、ぼんやりとした頭ではよくわからなかった。わからないという意味で、それはただ単に純粋な涙だった。僕は立ち止まり、背負ったリュックサックのポケットを探った。ポケットから伊達眼鏡を取り出して掛けた。ミレちゃんの手をもう二度と離さないようにしっかりと握り締める。そうしてまた歩き出そうとしたときに、僕たちの後ろで車のクラクションが鳴らされた。振り返ると赤いローバーミニにお珍さんが乗っていた。

「駅まで送っていくわ」

 そう言ってお珍さんはドアを開けた。まさか後を追ってくるとは思わなかった。しかし僕にも意地がある、よろしくお願いしますと何事もなかったように振舞うわけにもいかない。僕は無視してミレちゃんの手を引き、お珍さんを背にして歩き出した。眼鏡の内側の涙はもう乾いていた。僕は自分の心の内に怒りや軽蔑といった感情を探ったが、不思議なほど何の感情も見つけることができなかった。人は十の悪事を働いてもたったひとつ好いことをするだけで帳消しになってしまう。十の好いことをしてもたったひとつ目障りなことをするだけで評判が地に落ちてしまうこともある。人間はどちらに転ぶかわからない綱渡りを目隠しして歩いているような危うい存在なのだ。些細なことがその後の人生を大きく左右することもある。もし僕がここでお珍さんの好意の申し出を断ったらお珍さんは一生今日という日を後悔しながら過ごしていかなければならなくなるかもしれない。すこしでもお珍さんの罪の意識を減らしてやらなければ、むしろ僕のほうが気になって参ってしまう。

 僕は立ち止まった。

 人間だもの、誘拐したり薬を使って悪戯しようとしたり、そんなことをしてしまうことだってあるさ。

 薬がまだ効いているのか、そんな焦点のズレたことを考えながら僕はロボットのように不自然な動きで振り返った。そして、まだぼんやりとした様子のミレちゃんの手を引っ張ってローバーミニの横まで行き、「よろしくお願いします」と言って何事もなかったように車に乗り込んだ。

 僕はただ、自分のせいで人が嫌な気持ちになって、そのせいでさらに自分が嫌な気持ちになるという悪循環が堪らなかったのだ。


 

 

 お珍さんは僕たちを東京駅まで送ってくれた。駅までの車中、ほとんど会話はなかった。お珍さんは一言、「ごめんね」と言った。僕は「はあ」と言った。それが唯一の会話だった。ミレちゃんはスースーと寝ていた。

 東京駅に着いて僕とミレちゃんは車を降りた。ミレちゃんはまだあまり気分がすっきりしないようで、眠たそうな顔をしていた。窓越しにお珍さんに軽く礼を言って別れた。とにかく先を急ぎたかった。仙台までの新幹線の切符を買い、電車に乗り込んだ。

 隣に座ったミレちゃんはウトウトとして眠りの境界線を辿っていた。この様子ではさっきスギエの家であったことも覚えていないだろう。あんなこと覚えていなくていいのだ。僕は鮮明で残酷なその記憶を打ち消そうと、リュックサックからポータブルCDプレイヤーを取り出し大音量で『ばくはつチューン』を再生した。

 

  めっぽうまっぽうめっぽうまっぽう

  世界の終わりが近づいた

  花の香りもわからずに

  すべてわかった顔をして

  香水をつけるお前など

  ガオルックミー ガオルックミー

  ば・く・は・つ・チューン

 

 訳のわからない歌である。ハスキーボイスが耳に障る。十回ほどリピートを聴いたあとで止めようとした。停止ボタンに指を置いたとき、歌詞が微妙に変わった。

 

  めっぽうまっぽうめっぽうまっぽう

  世界の終わりはもうすぐだ

  ホントの愛もわからずに

  すべてわかった顔をして

  浮気を楽しむお前など

  ガオルックミー ガオルックミー

  ば・く・は・つ・チューン

 

 はっはーん。さては田原のやつ、失恋しやがったな。僕はこの曲を作った田原とその彼女のマイちゃんの顔を思い浮かべてにんまりとした。しかし、にんまりとしたそのすぐ後に心に寂寞が到来した。

 結局なんにもわかっちゃいないのは僕なのだ。花の香りなんて金木犀くらいはっきりした花じゃないとわからないし、さらに言うと金木犀が花かどうかもわからない。ほんものの愛を知らずに付き合い別れを繰り返してきて、ほんものの愛を知るため、すべてをゼロに戻す覚悟でミレちゃんとの旅に出た。しかし漸く何か大事なものが見えそうだったミレちゃんとの旅も振り出しに戻ってしまった。本当にゼロになってしまった。めっぽうまっぽうめっぽうまっぽう。イヤホンから終末を告げる声が垂れ流され、無抵抗な僕の脳の中に侵入してくる。めっぽうまっぽう。僕は曲に合わせて呟いた。めっぽうまっぽう。ミレちゃんのちいさな手を握り締める感触だけが唯一存在感を持っていた。その完璧なる感触によって、ちょっとの間静まっていたミレちゃんの貞操を汚されたことに対する嫉妬・憤り、またスギエやお珍さんのようなわかった顔をしている奴と自分がまったく変わらないということに対する恥辱、それらが輪郭を露わにして、今、僕の前に立ちはだかっていた。醜い壁を前にすると愛だのなんだのと考えているのがいかにも陳腐で恥ずかしいことであるように思われて、僕はCDプレイヤーの音量を最大にして眠りにつこうとした。しかし逆にうるさすぎて寝られず、仕方がないのでくだらないことを夢想するのに仙台までの時間を費やすことにした。

 今頃スギエは額にチンポを刺してユニコーンのようになって海の上を飛んでいるのではないか、あれからヘゲモニーランドを襲ったキャラクターたちが東京へと戦場を移し首都を壊滅させているのではないだろうか、大阪から参戦したエレクトランドのスペルマンが電車の中で僕たちに声をかけてきたおばさんにスペルマをぶっかけているのではないか、そんなことを考えていると段々愉快になってきて、気づいたら「ば・く・は・つ・チューン」とノリノリで口ずさんでいた。通路を挟んで隣に座っていた三十歳くらいのサラリーマンが、未だにフリーターをやっている同世代の奴を見るときのような目でこちらを見ていた。

 

 

 仙台に着いた。ミレちゃんはずっと眠っていたのでもうすっかり意識を取り戻したようであった。僕はミレちゃんの手を固く握り締め中央口を出た。仙台の人々は何かに怯えているように静かに歩いていた。人は大勢いるのだが、人数の割りに駅前はひっそりとしていた。ヘゲモニーランドの戦火が仙台にまで飛び火したのではないか、そんな新幹線からのくだらない考えを延長してみたが、結局、もともと仙台の人はおとなしいのだろうと一人で結論を出した。

「ここどこ?」

 ミレちゃんが聞いた。

「ここは仙台だよ」

 すこしぎこちない自分を感じた。もうすでに体から関西弁が完全に抜けていた。

「せんだい……ってみやぎけんやっけ?」

「おお、よくわかるねえ。そう宮城県。ここが俺の故郷なんだ」

「ふーん」

 ミレちゃんは無表情で夜の街を眺めている。ミレちゃんの目に僕の故郷はどのように映っているのだろうか。

「さああっちに行こう。俺の家まではバスで行くんだ」

 ミレちゃんの手を引いてバス停へ向かった。

 幸い、バス停に知り合いはいなかった。小さい団地なのでどこかで見た顔が乗っていることが多いのだ。バス停にいたのはOL風の女と初老の男二人だけだった。バスに乗り込み、改めて仙台の街を車窓から眺めた。京都とは違いどこか寒々しい町並みだった。土地が広いから密度が薄いように見えるのかもしれない。実際、仙台に出てきて下宿している大学生は京都の大学生よりも広い部屋に住んでいる。フロとトイレがセパレートになっている部屋も多い。僕はふと考えてみた。僕がもし京都生まれで仙台の大学に通い、そのためにここで下宿していたとしたら人生の何が変わっていただろうか。仙台で生まれ育ち、京都の大学へ行き、ミレちゃんと出会い、旅をする。この偶然は何を意味するのか。何を僕に指し示しているのか。

 ――何の意味もあるわけはない。そんなことに興味もない。意味なんてものはすべて後付けされたものなのだ。

 自分で自分の考えを打ち消した。大事なことは最後の最後にジャジャーンとお披露目されるはずだ。とにかく僕は最後まで進むしかないのだ。道を信じて進むしかないのだ。

 ミレちゃんを見ると寂しそうな顔をしていた。さすがにそろそろ京都の自分の家に帰りたくなっているのかもしれない。

「ごめんなミレちゃん。もうすこしだから」

 ミレちゃんは窓に流れる風景を見つめたまま何も答えなかった。僕はミレちゃんを安心させるために手をぎゅっぎゅっと握った。しばらくたってから僕の手を握り返してくる小さな力を感じた。

 もう僕たちに話すことは無かった。二人はスプリングの固いバスに揺られてもうすぐ終着点へ着くはずだった。

 

 

 《亀が丘ニュータウン入り口》というバス停で僕たちはバスを降りた。そこが僕の生まれ育った町だった。亀が丘という団地名は、この辺り一帯をヘリコプターで上空から撮ったときになんとなく亀の形に見えるからということで決められたらしい。一度その写真を見たことがあるが亀というよりは星みたいに見えた。

 僕たちは坂を上った。亀が丘というだけあってこの町には坂が多い。町で一番高い場所に中学校があり、二番目に高い場所に小学校があった。学校を小高いところに建てるというのはどうもいやらしい感じがする。坂の上にある学校は好きだが、その裏に垣間見える大人の小細工のようなものが気に食わない。どうせなら百メートルくらい地面を掘ってみんなから見下される学校を作って欲しいものである。僕は絶対にそんな学校に行きたくはないが。

 小学校が見えてきた。小学校には正面に長いゆるやかな上り勾配の坂があり、裏手の校庭側には百段くらいの急な階段があった。僕たちは校庭側から上った。階段を上りきったときには体全体に汗をかいていた。ミレちゃんと繋いだ手もじっとりと汗ばんでいる。僕が手を見ているとミレちゃんも気づいたようで、こちらを見て力ない笑顔で「キモイ」と言った。

 

 階段の上からは仙台の街が広く見渡せた。仙台の街は思っていたよりも暗かった。最近亀が丘の目の前に建設されたゴミ焼却場から煙がモウモウと立ち上っている。黒い夜の中で煙だけが白く、空と陸の境界を一箇所だけ不自然に押し上げている。僕とミレちゃんは丘の上からの景色を前に、ただ立ち尽くした。これが僕の考えていた終着であった。ここが僕の考えていた終着であった。暗い街には煙しか見えなかった。僕は煙を注視した。何かがジャジャジャジャーンと飛び出てくることを期待して煙を注視した。しかし煙から何かが生まれるわけではなく、煙自体が生命を持ったもののように広がり僕の視界を包んでいった。ミレちゃんも同じ景色を見ているのだろうか。体にまとわりつく感触が不快な記憶を呼び覚ます。それは不快な記憶ではあったが何故かあまり不快には感じられなかった。視界を満たす煙の向こう側にピンク色の輪郭が見えた。僕はお珍さんの完璧な乳房を思い浮かべながら、二人を同時に愛することは可能だろうか、と考えた。それはおそらく可能なのだろう。一人しか愛せないというのは勝手な思い込みだ。誰もそんなことを決めてはいない。しかし、僕には到底為し得ぬことのように思われた。愛を知らずにどうして二人を愛するというのか。そう考えるうちに僕を包む煙は徐々に薄くなっていった。ゴミ焼却場が今日の操業を終えたのかもしれない。煙は薄くなり、煙突の上に細く揺らめくだけになった。しかし、薄くなろうが風に吹かれようが決して煙は消えはしないだろうという思いが、確固たる質量を持って僕の心の底面に沈殿した。

 僕はミレちゃんのほうへゆっくりと顔を向けた。ミレちゃんはとても不安そうな顔をして僕の顔を覗きこんでいた。

「お腹減った」

「うん、お腹減ったな。よし、ウチへ行って何か作ってもらおう」

 そう言ってミレちゃんの手を取り階段を降り始めた。ミレちゃんの横顔を盗み見るとニッコリと笑っているように見え――

 

 次の瞬間、僕は階段を踏み外し百段を転げ落ちていた。

 

 視界がグルグルと変わっていき頭蓋がガンガンと連打された。ドベエッという音ともに僕は階段の下で止まった。ぼんやりとした意識のなかで誰かが「気をつけて」と言ったような気がした。もっと早く言ってくれよ馬鹿野郎。ちょっと遅いよ。

 仰向けの状態で止まったのが唯一の救いだった。さっきはゴミ焼却場ばかりに気をとられていたが、夜空には満天の星が広がっていた。やっぱりこの町は亀が丘じゃない、星が丘なんだ。星空は僕が子供のころから数え切れない夜をまんじりともしないで輝き続けている。ゴミ焼却場が建っても、近所のスーパーが潰れても、星空はまったく変わることなく頭上に在り続けている。ミレちゃんが階段を駆け降りてきた。ミレちゃんは僕に駆け寄ると、僕の頭を胸に抱きながらとめどなく涙を流した。僕はミレちゃんの平面のおっぱいを感じながらとめどなく鼻血を流した。

 蝉がチューンチューンと鳴いている。朦朧とする頭の中に突如、ある閃きのようなものが浮かび上がった。それは煙の中に現れたもうひとつの輪郭であった。そうだ、僕は爆発なんかせずにいつまでもミレちゃんを愛し続けてやる。キモイと何万遍言われようが愛し続けてやる。健やかなる時も病めるときも愛し貫いてやる。愛し続けるという決心、それこそが愛であると思った。それこそがアイデアルな愛である。

 僕は意識が遠のいていくなかで、人類史上最もクダラナイ愛の韻を踏んだ。

 

 

 <了>