幸せは歩いてこないということはわりと知れ渡っているが、だからといってこっちが歩くしかない、というわけではない。幸せは不定期に点滅する。たまたまやってきてこっそり消える。
昼下がりのニュータウン。小学校と中学校のチャイムの音がユニゾンのように聞こえてくる。こどもたちの声と自動車教習所の所内放送がこの町の音の大部分を占める。有閑夫人はペットを連れて散歩に出かけ、有閑老人は草花に話しかける。一方、8000人が住む一丁目の東端にある青い屋根の家の中で、悶々とする男が一人いた。
自称詩人。豆雄は今日も机に向かっていた。机の右側には電卓、左側には辞書類が見える。右手に握り締められた万年筆はいっこうに動かない。彼は悩んでいるのか。彼はこのようなことを考えていた。私が詩作するということは、自身のうちに表現する欲求が認められるからだ、しかし私が思うことというのは所詮誰でも考えうることであって、公に発表する必要はないだろう、けれども表現する以上は誰かに見てもらいたいと思う、公表すべきか否か、たとい世に問うたところで賛否の声どころか反応さえ得られないのではないか。しかし表現したいという気持ちはとめどなく溢れてくる。これはごまかしようがないのだ、文章もこのように溢れてくるものであったらどれほど心地よいだろうか。豆雄は悩んでいた。その悩みは大豆と小豆の大きさの差に思い悩む程度のサラリとしたものであった。もしくはえんどう豆といんげん豆はどっちがおいしいか悩む程度のチラリとしたものであった。
ついいましがた豆雄はレイコにメールを送った。返信はまだ無い。そこで彼はプッチンした。どうなってんだボケナス。と。
気分を和らげるために豆雄は町に出ることにした。
東に住む詩人が町へ出るころ、3000人が住む三丁目の南端にある黄色い屋根の家の庭で、脇から湧き出る汗を止められない男が一人いた。
彼は柔道家である。名はミフネ。背は180センチを超え、堂々とした体躯である。彼は丸太で作った人形に腰をぶち当て、一心不乱に背負い投げを繰り返していた。ときどき男からはうめきのような声が漏れる。なぜ彼は背負い投げを繰り返すのか。先週の地区大会、団体戦で相手校の自分よりふた回り小さい副将に朽木倒しを見事に決められ敗けた。彼の学校は敗けた。それからの彼はいささか自分を見失ってしまっているようだ。得意の内股ではなく背負い投げの練習に精を出すなんて。はっと気付いたように彼は背負い投げのモーションを止めた。彼はこのようなことを思いついた。もしかしたら俺はとんでもない思い違いをしているのかもしれない、この前の大会で俺はあっけなくブザマに負けてしまった。その不名誉を挽回すべく、こうしてぱっと見インパクトに残りやすい背負い投げを練習している、しかしよく考えてみれば背負い投げより一本背負いのほうが目立てるのではないか。そう思い彼は一本背負いの練習に切り替えることに決め、また丸太と対峙した。そこで彼は愕然とした。この丸太、腕の部分がないじゃねえか。どうなっているんだクソッタレ。と。
男は自分の半熟さ加減に嫌気がさし、気分を変えるために町に出ることにした。
南に住む柔道家が丸太に派手に腰をぶち当てているころ、4000人が住む二丁目の西端にある茶色い屋根の家の離れで、この世のすべての悲しみの内の一万分の一程度を一人で背負ってしまったような顔をした男が一人いた。
男の名は通称ルドルフ。顔の彫りは深く、鼻が高く、色はめっぽう白い。男はさっきから頭をかきむしっている。そのおかげで頭皮がずいぶん傷ついてしまっているようだ。彼は周囲の人々からの扱いに悲嘆していた。おお、なぜみんな私に冷たいのだ、なぜみんな私に話しかけてくれないのだ。たまに声をかけてくる奴も「こんにちは」と言ったきり、あとはダンマリをきめこんでしまうのはなぜなんだ! きっとみんな私のことがきらいなんだろ! これはイジメという代物にちがいない! まさか自分がこんな目に遭うなんて! これじゃあ何回転校しても友達なんてできないよ!
しかしそれはイジメではなく単なる言語の壁であった。みんなダンマリをきめこんでいたワケではなく、ただグーテンタークしか知らないだけであった。
彼は悲しみにくれた。やってらんないよソーセージ。と。
男は日光に当たることを躊躇しつつも町に出ることにした。
陽が暮れかかっている。ピラリパラリと網目状の雲があちらこちらに見える。町からはこどもたちの声が消えつつある。かわりに飼い犬たちのワンワンバウバウという鳴き声が密集した家屋の壁に跳ね返り、これから嵐がくるような不穏な空気を漂わす。
豆雄は北西に向かって歩いていた。豆雄は興奮していた。黒目の大きいツブラな瞳はいつのまにか三白眼へと変わり、狂気を帯びている。豆雄はこれまでも少なからず破壊衝動に駆られたことがあったが行動に移したことは一度たりともなかった。しかし二丁目で三角形のレンガで組み立てられた壁を見たとき、彼の精神状態は暴発スレスレのギリギリのピリピリをなぞっていた。豆雄は自分に言い聞かせた。この破壊衝動をうまく変換できたら正に溢れ出す表現というものが得られるに違いない。その行く末が天国に続くか地獄に続くか、彼に知る由はない。進むしかないのだ。彼は北西に向かって歩いていた。
ミフネは南東に向かって歩いていた。彼は練習に明け暮れた日々を思い返しながら、自分がこれから柔道を続けていくべきか否かという根本の問題について考えていた。彼は、自分が強い、と生まれてこのかたずっと信じ続けてきた一種の信仰が、今はじめて崩れゆくことを感じた。そもそも何故ミフネは柔道をはじめたのか。彼は幼少の頃から体が大きくケンカが強かった。ミフネの父親は、彼のありあまる元気を健全な方向に向かわせようと、彼を近所の柔道教室に通わせはじめたのだった。そう、彼はたまたまそこにあった道を歩き始めたに過ぎない。近所にあったのが相撲教室であればその道へ、空手道場であればその道へ進んでいただろう。
かくして彼は柔道をはじめ、その身体的優位性により頭角を現し、その優等感から自分にとって柔道が最適の道であると確信してきたのである。確信は、確信ではなくなった。しかし、柔の道を外れるとしても最後に自分が強いという証明を柔道によって為すんだという意地は棄てることができなかった。ミフネは南東に向かって歩いていた。
ルドルフは西に向かって歩いていた。顔を紅潮させ歩いている様子は怒りを隠しきれないようにも、ジョギング中の休憩のようにもとれる。彼が落ち着こうとすればするほど彼の足は前へ前へと勝手に進んでいくのであった。もし傍から見て、今の彼の心持ちが理解できるという人がいるならそれはペテンであろう。ルドルフは生来、内の感情を正確に外に示すのが苦手なのだ。
突然、彼はまったく逆方向に進路を変えた。まるではじめから決められていたかのように。内から外へとベクトルが半回転したかのように。
ルドルフは東に向かって歩いていった。
町が夕方から夜に切り替わった。その瞬間を待っていたのかいないのか、もうひとつの太陽が、町の北に位置する四丁目のさらにそのまた北の方から近づいてきて町を照らした。いや正確に言うならばフェスティバル、カーニバル、パレードをすべて足したような類の無数の人たちの塊であった。
人塊は猛スピードで町の中心部へと向かっていた。口々に何かを叫びながら。
詩人と柔道家と外国人はちょうど町の中心にあたる一丁目公園の横の狭い十字路に向かっていた。三人は町の人々の無関心に支えられて誰にも気付かれずにそこへたどり着くかと思われたが、柔道着と外国人は他人に無関心なこの町の人々の目にも留まったらしく、いくつかの目撃証言がのちに聞かれた。
「ええ、なんと言ったらいいんかね。あの子とは郵便局の前ですれちがったんですがね、思わず振り返ってしまいましたよ。熊みたいな風貌にあの柔道着でしょ、それになにか日本がどうのこうのってブツブツ言ってるんですからありゃまさしく変態そのものでしたよ」
「あー外人でしょ。見た見た。このへんじゃ珍しいからねー、ミカが最初気づいたんだよね。あーあの人かっこいいみたいな。でもよく見たら禿げてて、二人であの人苦労してるんだ、若いのに大変だよねとかって言ってて。でもあれはやっぱり見ちゃうよー、だって身長3メートルくらいあるし、歩いてるのにすごい速くてー、絶対陸上の選手だよ。えっ格闘技? 絶対陸上だってー、棒高跳び棒高跳び」
そして彼らは衝撃的に出会った。そう、まさに衝撃的に。
豆雄とミフネは、もしお互いがまっすぐ見ながら歩いていたなら、すぐそこに相手が近づきつつあることに気づいていたはずだった。しかし、二人は極端な視野狭窄に陥っていた。互いに気づいたときには既に体が動いていたのだ。
ミフネはこれ以上ない綺麗な身のこなしで豆雄のシャツをつかみ一本背負いを決めた。
そしてミフネは叫んだ。
「いっぽん!」
豆雄はしたたかに背中を打ち、星が瞬きはじめた町の空を見ながらこう言った。
「てんじょう!」
横から一足遅れてこの光景に出くわしたルドルフは初めて日本語を喋った。
「きゅうきゅうしゃ!」
三人の声は町中に響きわたった。
そこへ十字路の最後の一本、ルドルフの正面側から人塊がやってきた。
人塊はもはや光速の域までスピードを上げていたが、三人の数メートル手前で急に止まった。もしそれを見ていた人がいたなら(しかし残念ながら、この膨大な人数の急ブレーキを見ていた人はいなかった)突然現れた人々に驚愕して失神したに違いない。
人々の群れはしばらくまったくの無表情で三人の様子を眺めていたが、突然、先頭にいたリーダーらしき毛むくじゃらでメガネをかけた男が、天地をひっくり返すような甲高い声で力の限り叫んだのであった。
「いっぽんてんじょうきゅうきゅうしゃあ!」
するとしばらく間をおいて周りの人々が声をそろえて叫んだ。
「いっぽんてんじょうきゅうきゅうしゃあ!」
「いっぽんてんじょうきゅうきゅうしゃあ!」
人々の声は縦横無尽に町の中を駆け回り、しまいには町のどの建物よりも高く空へと舞い上がった。その声に呼応するようにひっそりとしている町のあちらこちらで灯がともりはじめ、町全体が光りはじめた。人塊はなおも吼えつづけ、人工的な光を超えた明るさが町を包んだ。
すっかり明るくなっても依然、町は寝たままだった。その中で唯一、活発に動きはじめたものがある。それはゴミ箱だった。蓋の付いているゴミ箱は口をパクパクさせながら、それ以外のものは口をポッカリと開けたまま、三人が口の中に入るのを今か今かと待ち続けていた。
しかしそれは無意味なことである。
三人はゴミではないのだから。
もうすぐ本当の夜が明ける。少々町が明るくなりすぎて人々の輪郭が消えかかっている。
そのことに気づく者はない。
<了>