大晦日の夜に

大山三ダース

 

 

 

 

 大晦日、最終バスに乗り込み、帰路へついた。車内は何か一言でも喋ったらすぐそこに迫った新年を無事迎えられないとでもいうように、水を打ったような静けさに包まれていた。一番後ろには、酔っているのか赤ら顔のサラリーマンが、五人は座れる席に一人で悠々と陣取り、ドアのすぐ後ろ、二人掛けの席には人の良さそうな老紳士と老婦人が、運転席の後ろにはシャカシャカとヘッドフォンの音を漏らしながら小刻みに頭を揺らす青年、その逆の窓側には白い高そうなスーツを着た髪の長い女性が座っていた。シャカシャカの青年以外音を発する者は誰もいない。私はドアの向かいの席に座った。コンビニで買った缶コーヒーのプルタブを引き開け、ごくりと喉を潤した。

 ――今年も早かったな。

 一年の終わりにはいつもそう思う。歳をとるにつれて一年がスピードを増していく。今年も色々なことがあった……。

 一年を振り返ろうとして私は愕然とした。

 ――何も……何も思い出せない。

 このバスに乗る前のことが何も思い出せないのだ。一年の終わりにはいつもそう思う? 私は一体いつの「いつも」を思い浮かべていたのだ? 慌てて周囲に目を向ける。バスの外には見慣れない風景。暗くところどころ青く光る茫洋とした草原、草原を割るようにしてバスと並行して走る川、目を凝らすと草原の奥に山々が聳えている。それは有り得えない景色だった。ここは都会であるはずなのだ。そしてバスの前にある表示板に目を転じると、行く先の表示はおろか電源そのものから切られていることがわかった。何かがおかしい。必死に記憶をたどるが、バスに乗り込む以前の記憶は握りつぶされたように正体が消え去っていた。

 ――……待てよ、私は確かに今日が大晦日だと知っていた。ということは今日だけの記憶はある……いやしかしバス以前の記憶はないのか。だとすれば私に残っている記憶は……。

 人間の意識は連続を欲する。私は断絶された過去というものを意識して、谷底へ突き落とされたような気持ちになった。がくがくと体が震えはじめ、抑えようとしても止まらない。

 ――私は、私は誰なんだ!?

 車内を見渡したが、誰も不自然な行動をとっている者はいない。記憶の喪失ということを差し引いても乗客全員にとって明らかにおかしい状況であるのに。このバスはどこへ向かっているんだ? ……とりあえず冷静になろう。私は乗客に話しかけることにした。とにかくひとりでも仲間を見つけたかった。おかしな状況を分かち合う仲間が欲しかった。

 ――誰に話しかけるべきだろうか。

 後ろのサラリーマンはいびきをかいて寝ている。前にいる二人はそれぞれの世界に浸りきっている気がして話しかけにくい。自然と対象は老人二人に絞られた。私は席を立って恐る恐る老紳士のほうに声をかけた。

「あの、すみません」

 老紳士が微笑をこちらに向けた。

「このバスってどこに行くんですか?」

「なに心配することはない。どこへ行こうが着いたところが目的地だ」

 耳の奥でくぐもった音が響いた。その音が目の前の老紳士の声であるのに気づくのに少し時間がかかった。老紳士は微笑みを崩さず、隣の老婦人もニコニコとして私を見つめている。

 ――ダメだ。埒があかない。

 私は曖昧に頭を下げてから席に戻った。人生を達観しているような答えなんて期待していないのだ。しかし乗客の誰に訊いても大差はないような気がした。皆狂ってしまったのか。車内の静寂が否応なしに不安を駆り立てた。何気なく外に目をやると車窓を流れていた風景が速度を落としていることに気づいた。バスの進む方向を見ると、オレンジ色の光を前にして、折り重なるようにして赤いテールランプが瞬いている。遥か向こうに大きなトンネルが口を開け、飲み込まれるのを待つかのようにバスの行列が続いていた。数えきれないバスの行列、それは今感じている不安を形あるものに変えてしまうな明らかに異様な光景だった。

 私は行列の最後尾につけたバスの車内を歩き運転席の隣に立った。

「これは一体なんなんですか?」私は運転手に聞いた。

「なに心配することは何もありませんよ。このバスだけが助からないなんて事はありませんから。要するにみんな貪欲なんですな」

 運転手が話している間に、数台のバスがUターンして反対車線を通り過ぎていった。運転手はわずかに微笑んで続けた。

「なかには耐えられなくなって道を戻る者もいます。確かにトンネルの向こうにはアップダウンの激しい山道も待っているし、命知らずなスピード狂が競い合う道路もあります。だけど運転手を任されている私みたいな者にとっちゃそれこそ楽しみでなりません。今通って来た平板な道じゃあドライブも盛り上がりませんよ」

「それはそうかもしれないが……」

 行列は停まっているのと大差ない呑気さでちょっとずつ消化されていく。

「あの……私はさっきから違和感を感じているんですが、記憶も曖昧だし……」

 後ろを振り返ると、相変わらず覇気のない顔をした乗客の顔の向こうに行列に並んでいくバスの影が見えた。

「おっと、もうトンネルに入りますよ」運転手が言った。

「やっぱり大晦日は道が混むなあ。早く帰って蕎麦でも食べながらのんびり年を越したいものです。それはそうとお客さん、そろそろ手すりを掴んでいたほうがいいかもしれませんよ」

「なんだって?」

 言い終わるか否かのときに車内に爆発音が響いた。

「うわっ」

 私は倒れそうになりながらも手すりにつかまり体勢を整えた。後ろを見るとバスの最後部の席がひしゃげてサラリーマンがペシャンコに潰されて飲み込まれていくところだった。老紳士と老婦人は何も気づいていないのかニコニコとしていた。

「運転手さん! あれは!?」

 運転手はどこまでも落ち着き払った態度でハンドルを操っている。

「とうとう来たな。神様っていうのがいるとしたらよっぽどショーが好きなんだろうな。あちら側から閉まったらこのバス旅の醍醐味がなくなりますからね」

 バスは後ろのほうからどんどん破壊されていった。まるでスクラップにされるみたいに――事実、今入って来たトンネルの入口がトンネル内のバスをすべて押しつぶさんとする勢いで閉じていっていた。まるで意志をもっているかのように。後ろの席に座った老人二人も飲み込まれようとしている。

「ちょっと! 逃げないと……」

 私の呼びかけも虚しく、二人は腰骨をベキベキと折られてスクラップに飲み込まれていった。表情はどこまでも微笑みを絶やさぬままで。

 ――狂っている!

 眠っていたのか髪の長い女性がやっと異変に気づいて、驚愕の表情を浮かべながら前のほうに走り寄って来た。

「ちょっと! 何なのアレ!?」

 音楽を聴いていた青年もようやく後ろを振り返り、ぎょっとなって席を立った。私はパニックになって叫んだ。

「運転手さん! 何なんですか、これは! 早く、早くしないと」

「ちょっと私を無視するんじゃないわよ!」

 女がヒステリックに私の顔を引っ掻いた。私は派手に床に倒れた。女は意味不明な事を喚き続けている。

「うるせえ! ぎゃあぎゃあ騒ぐな! うんこが!」

 ヘッドフォンの青年が懐からナイフを取り出して一気に女に突き刺した。女の白いスーツに薔薇のような模様が浮かび上がり、車内に血が飛び散る。女はばったりと倒れた。私の記憶の片隅で恐怖と憤りが光った。男の暴力に反応するようにトンネルがバスを噛みちぎっていく。こんなものはまともな世界じゃない。

「おい運転手。てめえどうにかしろよ」

 青年は運転手に切っ先を向け、喚き散らした。

「どうにかと言われても。私は最善を尽くすだけです」

「このやろう! オレはこんなとこでくたばるようなうんこ共とは違うんだよ!」

 ナイフを振り上げ、一直線に運転手に向かって振り下ろした。切っ先が運転手に届く寸前、私は体ごと青年にぶつかっていき、二人でゴロゴロと床を転がった。

「何すんだ! くそっ」

「お前がうんこじゃっ」

 青年はナイフを手放して殴りかかってきた。私も応戦する。鼻血が飛び散り、視界が狭まる。格闘の間にも空間はどんどん侵食されていく。

「おらあああ!」

「どらあああ!」

 激しいパンチの応酬の隙を狙って私は足払いをかけた。上半身に意識を集中させていた青年がすっころんだ。

「がはっ、おいこらおまえ卑怯……ギャアアアア!」

 青年の頭がプチッと潰されて脳漿がぶちまけた。青年は胴体だけになってもしばらく足をジタバタさせていたが、すぐに全身が鉄くずのなかに消えていった。私は満身創痍で運転席のほうへ戻った。

「どうやら首尾は上々みたいですね。といってもバスの尾は跡形なく消え去ってしまいましたがね。ハッハッハッ」

 もはや声を出すのも困難な私を見ながら運転手は愉快そうに笑った。

「……運転手さん、出口はまだですか?」息を整えてたずねた。

「心配することはありませんよ。ほら、白く光っているでしょう。出口はもうすぐです。お客さん、疲れているんじゃありませんか。あとは任せてゆっくりしておいてください」

 運転手の声を聞きながら、私は闘いのあとの満足感と疲労に身をどっぷりと浸していた。どうやらなんとかなりそうだ。こんな大晦日は初めてだ。記憶は相変わらず戻らないが、もうどうでもいい。早く家に帰って蕎麦を食べよう。そのうちに全部思い出すだろう。もうすぐで年が明ける。フロントガラスの向こうから日光のような暖かさが伝わってくる。私は眩さを増す白い光に包み込まれながら暖かさのほうへ手を伸ばした――。

 

 

 私はゆっくりと目を開けた。少しずつ焦点が合ってきて、周りの状況が判然としてくる。どうやら私はベッドに仰向けになっているようだ。白い内装の部屋。鼻をつく独特の匂い。右手には見慣れた運転手が白衣を着て立っていた。

「おお。奥さん。目を開けましたよ。よかったですね」

 白衣の運転手はそう言って腕時計に目をやった。

「おっと、知らない間に年が明けていたのか。こりゃめでたいですな。目が開いて、年が明く。ハッハッハッ、こりゃ愉快だ」

 私の左手を誰かが握っている。握られた手を伝って視線を上げていくと見知らぬ女性の視線とぶつかった。

「あなた……」

 ほっそりとした女の人の目からは涙が流れている。

 ――ああ、この人が私の妻なのか。

 記憶を探ったがそこには空白が広がるばかりだった。だが、その女性の目は優しく、手の温もりは穏やかで、失っていたパズルのピースがぴったりとはまったときのような安心感が私の心を満たした。

「ええと、私は席を外しましょうか。まだご主人には休息が必要ですが、落ち着いたら出前で蕎麦でも頼みましょう。では失礼」

 白衣の運転手が部屋を出て行った。私は妻だという女性に寄り添われて静かに目を閉じた。トンネルの向こうから差し出された華奢な手を、決して離さないようにしっかりと握りしめて。

 

 

 <了>