夫婦茶番

大山三ダース

 

 

 

 

 春――壬生の貸家に仙台の男が転がり込んだ。三太という名の男だった。貸家は二十ばかり棟が並んだ往来の、ドンツキにある一で、河内の女が一人で住んでいた。ちょうど、パン屋から花屋へ職を替えると云って同居人が出て行ったところ、そこにすこんと嵌め込むかたちで直子は三太を招き入れた。曖昧だった二人の関係は固まったが、三太はとんと稼ぎを上げず、賃代を二で割るという直子の目論見は初っ端からオジャンになった。

 三太は趣味で映画の本などを書いていたが、それで生活をどうこうしてやろうという気概はないらしく、まったく関係のない仕事ばかりを探してきては面接を受けただけで満足するのだった。健康食品を商う店の面接では、「このスクリーンてのはアパートの名前か」と訊かれ、

「さいです」

「君は余程映画が好きなんやな」

「ああ、映画とスクリーンですか。今はじめて気づきましたわ」

「これからはどうだろう、履歴書に大きく太字で書いたら」

「マア、ほしたら突っ込んでくれますかね」

「一分ぐらいは盛り上がるんとちゃうか」

「得はあっても損はなしですね」と答えて、珈琲を一杯飲んで帰ってきた。スクリーンというのは三太が以前住んでいたアパートの名で、直子が本屋の仕事から帰ってくると、「映画好きがスクリーンに住んでいたというワケやな」と笑いもせずに云った。直子は、ふうんと聞き流して、そういえば賃貸借契約書の貸借人の項にまだ以前の同居人の名が載っているけれどどうしようと少し考えた。そこに三太の名を載せると新規の契約となり、敷礼金が掛かってしまう。しかし、これまで一度も大家がやってきたことはない。ばれなければ問題ないだろうと、直子は考えをひとまず打っ棄っておくことにした。

 直子は昼に本屋で働き、夜は四条木屋の喫茶店で給仕をしていた。その喫茶店には、ときおり、三太が珈琲を飲みにやって来た。家賃に充てる金はないが、珈琲を飲む小銭はあるようだった。一、二階どちらにも客席があったが、三太はいつも、二階の会計の横の席に座った。その席からは直子の姿がよく見えた。三太は読みさしの文庫本をだらだらと読みながら、直子の華奢な身体を包む紺色の古風な給仕服を眺めて、「それ、デカない」と訊くと、直子は決まって「ちょっとね」と答えるのだった。

 三太は雑多に本を読んだが、国内では志賀直哉や夏目漱石、国外ではレムやチェスタトンなどを好んだ。直子も小説が好きで、昨今の推理小説の類などをよく読んだ。二人が買うのは専ら文庫本で、お互い云い合わせるわけでもなく、それぞれ異なったものを買ってきては居間の押し入れに積んでいった。ある日、直子が仕事から帰宅すると、三太が炬燵机の上で、八百字詰め原稿用紙に「城の崎にて」を筆写していた。

「なにしてんの」

「いや、なんか話を書こうと思ったんやけど、とりあえずは小説の神様かなと」

「それでどうなん」

「確かに神様だな。上手いから神様なんじゃなくて誰も真似できないから神様なんだよね」三太はそう云ってペンを置くと、原稿用紙を綺麗に畳みはじめた。直子はその様子を見ながら、「もしかしてこの人、暗夜行路の影響で働かへんのやろか」と考えた。

 

 直子の休日には、よく二人で喫茶店を巡った。特に河原町三条の六曜社には足繁く通い、夏場でも意地になって熱い珈琲を頼んだ。品切れになっていないときはロールケーキも注文した。相席したアベックが仕事の話をしていると、三太はさも働いているかのように喋り、直子もそれに話を合わせた。

「納期が迫っとるなあ」「間に合うん」「なんとかせなあきまへんなあ」「手伝おうか」「そうしてもらうと助かりますなあ」

 あるとき、二人がいつものように珈琲を飲んでいると、隣の席に座っていた男がマイルドセブンを吸い始めた。釣られるように三太は懐を探り、ハイライトの空箱を取り出した。そして、さも空箱だと気づいていないかのように「あれマ」と握りつぶすと、直子に「お金借りてもよろしいでしょうか」と慇懃に訊いた。隣のアベックがぴくりと動き、直子もぴくりと震えた。とうとう来たかと思いつつ、三太に三百円を渡すと、三太は胸の前で手を合わせて、「すんません、すんません」と早口で呟いた。

 一度金を渡してからは一事が万事、そんな具合で日々が過ぎていった。季節が秋になる頃には、三太は押しも押されもせぬ立派な居候となった。以前は、珈琲を飲む金程度ならば常時持っていたが、今となっては無一文の素寒貧だった。三太曰く、親から勘当を云い渡されたとのことだったが、子が子なら親も親、完全な縁切りではなくして、早く働けという親心に因をなす甘い勘当であるらしかった。三太は「働かなアカンなあ」とぼやきつつ、いつしか図書館に通うようになった。直子が朝早く仕事に出ると、一時間ほどして三太も家を出る。ぶらぶらと北へ上り、丸太町の中央図書館で新刊小説や新聞を端から端まで読んで、腹が減るとまたぶらぶらと南へ下り、壬生へ帰ってきた。三太は家では常に居間に陣取り、直子が大宮の青果店で買ってきたバナナを齧りながら、なにやら物語を書いた。

「すこし痩せたんちゃう」

「いわゆる、バナナダイエットやな」と答える三太は確かに、頬骨が目立つほどに痩せはじめていて、一方直子は忙しいながらも安定した生活のせいか、冬に向かって脂肪を蓄えるように肥えていった。同僚から「顔色が良うなったな」と声をかけられる直子の顔は、明らかに輝きを増して、以前はぽっきりと折れてしまいそうだった身体もふっくらと艶っぽくなった。

 夜分、三太が直子の肥えた尻を、さすり、さすりしていると、直子が、

「喫茶店でもやってみいひん」と云った。

 三太は「悪くない」と独り言のように云い、尻から股の間へ手を伸ばしながら再び、判然「悪くない」と云った。接客は任すから、俺は珈琲を飲むよ、とも云った。翌日には直子が喫茶店開業に関する本を買ってきた。二人がページを繰っていると、三太は「三百万から出来るのか」「いや、五百万あった方が安心やな」とすっかり乗り気な様子を見せ、直子も直子で、実家にサイフォンがあるから今度持ってくる、喫茶スペースの横に雑貨を置こう、と矢鱈盛り上がり、その日は結局、調子に乗って焼肉を食いに出かけたのだった。

 

「お宅の恋人、大丈夫なんかいナ」

 同僚にそう訊かれると、直子は決まって不思議な心持ちになった。恋人、恋人、恋人、大丈夫、大丈夫、大丈夫。「パーフェクトやわ」大丈夫やないけどな、恋人て、いまどき珍しい呼び方やな。「そうか。ならええけど。そういえばな、今度飲み会があるんやけど直子さんも来いひんか」と誘われて、流れのままに承諾し、男三人女三人で酒を飲むことになったのが十月の終わりだった。

「いってきます」「いってらっさい」と家を出たまでは良いが、その日の仕事後にある飲み会を考えると、直子の小さな胸は高鳴ったり低鳴ったり、平常の落着きがなくなっていった。あの人は今日も図書館に行くんやろか。昨晩読んだあの人の小説は惜しかったな、もう一押しやな。最近は遠ざかってるみたいやけど映画の本も書いたらええのに。今日はどんな人が来るんやろ。お金持ってるんやろな。五百万どころか一千万くらいポーンッと。ほしたら今すぐにでも喫茶店はじめられんのに。「これは上等な肉やな。霜が降ってるゼ。神戸牛のヘレ、五千円。なぬ? 八千円? マア大体当たってるやろ。俺は昔から舌が肥えとるんや。それこそ真似できない舌、神の舌やな。ゴッドタン。ほら、俺の金やないしもっと食いな。せや、せっかくやしタン食おか。すいませーん。あ、すいません、塩タンひとつ。へえへえ。そういや俺の郷里の仙台っちゅうところでは、塩タンではなくてタン塩て云うてた気がするけれども、まあどうでもええか」直子は焼肉を食べに行ったときの三太を思い出した。ゴッドタンでうまい珈琲いれたるわと云っていた男を思い浮かべた。ゴッドタンや云うてるけど、あれは嘘やな。バナナしか食ってない割に舌が肥えてるんは確かやけど。

 

 直子は仕事を終えると同僚二人と連れ立って先斗町へ向かった。喫茶店から先斗町まではたった一筋の道のりだったが、薄手の外套の隙間からは秋風とも冬風とも判じえない風が入り込んできた。三人が格子戸をくぐって如何にも高級そうな料亭に入ると、既に相手方の三人が談笑していた。

「ああ、どうも」と云った男は口が大きく、黒縁の眼鏡の奥に勝気な眼が光っていた。直子たちが着座するとじきに、小さな椀に入った料理が運ばれてきた。「いやあ嬉しいね。こんな美人揃いとは。なっちゃん、いい仕事してるよ」と黒縁の男が云うので、直子は、初対面でいきなりなっちゃんはないやろと面喰らったが、そういえば同僚の名も「ナ」ではじまる名やったなと気づいて、眉間に寄せた皺を打ち消した。

「とりあえずは自己紹介かな」

 黒縁の隣にいる、日本人離れした彫りの深い顔の男がそう云ったのをきっかけに自己紹介がはじまった。

「まずは僕から。鱶淵高次です。コージって呼んでください。ええと仕事は無職、趣味は読書です」黒縁の両脇の二人がくくくと声を潜めて笑った。「俺は太平洋一。タイヘーヨー、もしくはタイヘーでよろしくどうぞ。保険会社勤務の二十八歳、ちなみにこいつらも同い歳ね」「えっと志村健也、この場はシムケンでお願いします。東京の出版社で編集やってます」シムケンと自称した男は短髪痩躯で、髪の際は後退しはじめていたが、三人の中ではひとつ頭抜けた美男だった。ちょうど直子の向かいがシムケンで、自然と二人はよく喋った。直子は小説の持ち込みについてなどの話を振ったが、シムケンの勤める出版社は主にビジネスマン向けの啓発書などを扱っており、ほとんど関係がなかったため、話題は本屋や取次ぎなど共通の話に移っていった。麦酒から熱燗を一本、二本と空けるうちに皆酔っぱらい、直子も男からちやほやされるのが久しぶりで、シムケンを見ながらすこしうっとりとした気持ちになった。なっちゃんという名の同僚はいつまにかタイヘーヨーの隣に座り、お互いに酌をし合っていた。もうひとりの同僚の隣には黒縁がついていた。「無職やって云ってたけどホンマなん」「無職? ああ、自己紹介のときのね。あれは嘘だよ。この歳で無職なワケないじゃん。終わってるよ。ハハハッ」二人の会話を聞きながら、直子は一瞬、急速に酔いが醒めたように感じたけれども、すぐに陶然とした気持ちに戻った。

 飲みの席は日付が変わる頃にお開きとなった。直子はもうすこし飲みたい気持ちがあったが、阪急電車に乗り、河原町から烏丸、大宮、そして西院で降りたときには、早く帰らなければという焦燥を覚えて交差点を早足に渡っていた。三太が待っている。いつものように、バナナでも頬張りながら炬燵にうずもってるんやろな。腹を空かせた様子は見せずに「おかえり」と云って珈琲をいれてくれる。珈琲を飲んでいるうちに三太の腹がぐうぐう鳴り出す。ぐうぐう、ぐうぐう、うるさくってしょうがないから深夜でもやっている蕎麦屋に連れていく。そうしたらあいつは、かけ蕎麦を食べながら、これは二八だ、いや十割りだと云々しはじめるに違いない。

 直子は、既に消灯している貸家の並びを通り過ぎて、まだ自分の名前だけしか出ていない表札の前に立った。しかし電気は消えており、三太の気配は感じられなかった。鍵を開けて家の中に入っても、やはり三太の姿は見当たらず、直子は「阿呆らし」と独りごちて、コップになみなみと注いだ水を一息に飲み干した。

 

 一週間経った頃、三太がひょっこり帰ってきた。

「いやな、書き置きしとこうとは思ったんやけど、なんせ急ぎやったもんでな。中西さんておるやろ。あの人が訪ねてきて撮影手伝ってほしいっちゅうから、いつですかって訊いたんや。ほしたら今日いますぐやって云うから、起きたまんまの格好でフェリー乗って、どこ行ったと思う? 大分よ、大分の湯布院。日中撮影で夜は温泉入り放題。オモロかったわあ。ちゃんと日当も出してくれるしな。ほんでこれ、お土産。柚子胡椒」三太は柚子胡椒の小瓶と、くしゃくしゃになった二枚の万札を取り出した。

「こっちは煙草代な。結局俺がつかうけど」

「あんた、ホンマに阿呆やな」

「なに、阿呆とは失敬な」

「阿呆やから阿呆や云うてんねん。どうせ雑用やろ」

「雑用や云うても肩書きは助監督やで。映画は間違いなくうんこみたいな出来やけど、俺の名前流れるやろうから楽しみだね」

「楽しみだね、ちゃうよ」

「そうそう。これ、煙草代には多いと思わへんか」

「そんなもん、もって二ヶ月やろ」

「マア、冷静に考えたらそうなる。が、しかし、もっと有意義につかおうやないの」

「何する気よ」

「温泉いこ、温泉」

 

 冬――クリスマスイヴからクリスマスにかけて、二人は城崎温泉へ一泊旅行に出かけた。どうせ泊まるなら奮発しようと評判のよい宿を取った。となるともちろん、三太が湯布院で得た二万円では足らず、足が出た分は直子が払うことになった。温泉行きは三太が決めたが、城崎という目的地は直子の独断によるものだった。三太は、行く前こそ、「あそこはいわば神様の場所やからなあ」と不明瞭なことを云って渋っていたものの、京都駅で電車に乗った途端、子どものようにはしゃいでべらべらと喋りはじめた。

「フリオ・コルタサルの短篇に『南部高速道路』ってのがあるんやけどな」

「うん」

「オモロいんだよなあ」

「どんな話なん」

「ふむ。まず主人公がな、どこに行ってたかは知らんけど、高速道路をつかってパリに戻ろうとすんねん。その日は日曜日で片側六車線、全部で十二車線すべてが解放されてるんやけど、それでも主人公――なんの技師かは知らんけど技師なんやな、そいつは渋滞に巻き込まれてしまう。ちょっと動いては止まる、横にあるプラタナスの木の位置はずっと変わらない、そんな具合であまりにも渋滞が進まんもんやから、技師は車から降りて自分のまわり、若い娘やら尼僧やら軍人やらと交流するわけや」

「ふうん、面白そうな話やね」

「せやねん。でも中略でいくわ」

 直子は眠たそうな目を三太に向けた。

「なんでよ? 真ん中が重要なんちゃうの」

「真ん中は重要や。はじめとおわりはお定まりのパターンがあるから阿呆でも思いつく。どうもっていくかが重要や。けどな、この話、中身が意外に詰まってるから、ひと言で説明するのが面倒臭い。マア、でもやっぱりちょっと説明すると、技師とそのまわりの車に乗ってる奴らはある種の奇妙な共同生活に入る。車の中に食料や飲むもんてそない積まんやろ。リーダー決めてグループつくって、食料の調達やら配分を決めたりしながら渋滞を乗り切ろうとするわけや。そしてそんな日々――朝になって昼になって夜になって、また夜が明けて朝がくるような日々――を繰り返しているうちに季節が巡っていく」

「すこしやり過ぎやね」

「ふむ。明らかに不自然な状況やけど、コルタサルってのは超絶技巧で、不自然を不自然と感じさせぬまま読者に納得させる。これがいわば納得力という奴で」

「納得力て、その安易なネーミングが納得でけへんわ」

「そう、その納得力の有無がコルタサルと俺の違いや」

「というよりあんた、小説まだいっこも完成させてへんやろ」

「そこもマア違いやな。ほいでな、技師と隣の娘は、渋滞の中で恋仲と云っていいんかな、そういう仲になって子どもが出来る。いわゆるひとつの妊娠やね。ところがどっこい、その頃になってやっとこさ渋滞が動きはじめる。技師と娘は車線が違うから自然と離れていってしまうワケや。どんどん速度を増していく車の列の中で、こんな風に話は締めくくられる――なぜこんなに飛ばさなければならないのか、なぜこんな夜ふけに他人のことにまったく無関心な、見知らぬ車に取り囲まれて走らなければならないか、その理由は誰にも分からなかったが、人々は前方を、ひたすら前方を見つめて走り続けた」

「悲しい話やな。ていうか今の、小説の引用やろ? よう覚えてんな」

「そう、これが完全想起能力という奴で、小説の登場人物にはよく見られる能力や。なるほど、どうやら俺にも備わっているようやな」

 直子はふうんと適当な相槌を打って目を閉じた。三太はそんな直子をにやにやと見つめた。ときおり、車内のどこからか赤ん坊の泣き声が上がった。

 直子がまぶたの裏で、さきほどの話はジョン・スラデックの「高速道路」に似ているなと考えつつ、「車あったらどこでも行けるな」そうぼそり呟くと、三太は、どこでも行けるけど、行くまでに疲れてまうな、と答え、ほどなくして二人は、八の字に寄り合ってぐうぐうと寝息を立てはじめた。

 

 城崎に着くと、早速二人は蟹料理を食べた。それぞれ蟹雑炊と蟹ラーメンを食べて満腹になると、駅で手に入れた観光案内のパンフレットを見ながら宿に向かってぶらぶらと歩いた。

「これが三木屋で、これが桑の木か。けっこう遠いな」

 三太は地図の端の方に描かれた木のマークを指でなぞった。直子は久しぶりの旅行に浮き足立った様子でジグザグに歩き、パンフレットを睨みながら歩く三太は、見失わないようにときおり顔を上げ、慌ててその後を追った。

 川に沿って続いている通りにはアベックの姿が目立った。クリスマスを温泉で過ごす偏屈な男女は意外に多いようだった。

「ああ、ここだ、ここだ」

 宿に着くと、二人は荷物を放り投げて横になった。部屋は二階の奥、窓からは表とは対照的な寂れた裏通り、通りに食い込むように枝を広げる木々が見えた。

「はじめてやな」直子は三太のかさついた手に手を合わせた。

「二人で旅行するの」

「そうか? 動物園行ったことあるやん。あんときは御所から歩いていったんやっけな」

「京都市内やったら旅行とは云わへんよ」

「そんなもんかね」

「そんなもんやって」

「でも懐かしいなあ。無駄に緊張してたわ」

「知り合ったばっかりやったもんね」

「あの頃から考えると、直子ちゃんは変わったよなあ」

「嘘やん。どのへんが」

 直子が訊くと、三太は自由になっている手を直子の臀部にもっていった。

「マア、このへんやろ」

 冬に入り、直子の尻は桃のように肥えていた。直子は尻に伸びてきた手をぴしゃりと打った。

「あんたは変わらへんな」

「俺は変わらへんよ。変わらないこと、灯台の如しや。まわりが変わってもひとり変わらず、いつもと同じ灯りをともし続けるのって素敵だよね」

「素敵だよね、ちゃうよ」

 二人は陽が落ちる前に二度、落ちた後に一度、外湯を巡った。直子はすべての外湯をまわろうと意気込んでいたが、熱い湯にのぼせてぐったりと疲れてしまい、夕食後、渋る三太を無理矢理連れていったのが最後となった。三太ははじめの一回だけで早くも嫌気がさしたようで、貸切り風呂を借りられる宿にすればよかったなどとぼやいていた。

 湯上がりには遊戯場でスマートボールをやった。はじめは次々に玉が吸い込まれて減るばかりだったが、三太が途中で滅多矢鱈にレバーを引きはじめると、面白いように玉が増えた。直子はぼこぼこと増える球を見て、飴玉みたいやなと思い、愉快な心持ちになった。

 すっかり湯冷めして宿に戻ると、二人は先を争って蒲団に潜った。壬生の貸家とは違って、広々とした部屋だったが、二人は枕をつけてひとつの蒲団に寝た。じじじ、と暖房の音だけが聞こえる暗闇を割って、喫茶店の話なんやけどな、と直子が切り出した。

「もしな、やるって云ったら、ホンマにやる気あるん」

「直子ちゃんがやりたいんならやったらいいんとちゃうか」

「そういうことやなくて、一緒にやるんやからどう思ってるか教えてや。あんた、ホンマは何がしたいん」

「俺は……」

 口では逡巡している様子ではあるものの、喫茶店をやるとなったら満更でもないだろうと直子は思っていた。映画の脚本を書いていたはずが、最近の三太は専ら小説を書いている。態度は一貫せず、ふらふらと物語を書いている。創作という点ではなるほど、三太は創作しなければならない、虚構に浸らなければ息が詰まってしまう類の人間であるかもしれないが、今のまま働かず無為に過ごしているのも決して気持ちのよいものではないだろう。要するにきっかけが必要なのだ。

「とりあえずやってみよ。あんたとやりたいんや」

「俺は……」

「店やりながらでも小説は書けるやろうし」

「書けることは書ける」

「ほんじゃあ決まりやな」

「ふむ……」

 暗闇の中に、窓から差し込む月明かりに照らされた三太の顔だけがぼうと光った。直子だけが三太を見ていた。それは、部屋に二人しかおらず、一人が目を瞑っている状況では当たり前のことだったが、なぜか直子は感傷的な気持ちになった。頬が痩けて青白い三太の顔は死人のようだった。直子が、雑草のように伸び放題になっている三太の髪に鼻を埋めると、ヤケに獣臭い脂が臭った。あんたはまだ全然死んでへんやろ、生臭すぎんねん。直子は、京都に戻ったらすぐにでも店を開こうと思った。狸寝入りしているのか本当に疲れているのか、しばらくすると暖房の音に混じって三太の静かな鼾が聞こえてきた。

 

 喫茶店に必要な経費を勘定していくと当初の見積もりが甘かったことがわかった。直子は、より一層、寝る間も惜しんで働き、三太も再び仕事を探しはじめた。三太の尻に火をつけるつもりで喫茶店の話を持ち出したが、思ったよりも早くエンジンがかかったようだった。

「とりあえず一年」と云いながら、三太が見つけてきたのはシステムエンジニアの仕事で、直子が「パソコン、大して詳しくもないのに大丈夫なんか」と訊くと、「それを仕事にしている人がいるんだから不可能ってことはないやろ」と答えた。三太が、大学の入学式以来、一度も袖を通していない背広を引っ張り出してくるのを見て、格好だけはちゃんとせなアカンと直子は三万円の背広を買ってやった。馬子にも衣装とでもいうべきか、真新しい背広を着ると、死人のようだった男にも多少覇気が感じられるようになった。二人が揃って働きはじめると、自然と一緒にいる時間は減ったが、将来に同じ目的を据えたことでなにか結束が生まれたようでもあった。

 

「仕事はもう慣れたん」

 久しぶりに二人の休みが被ったある日、テレビを観る直子の横で三太は小説を書いていた。

「ああ、だいぶな」原稿用紙に目を落としたまま三太が云った。

「でも、仕事中ソースコードをずっと睨んでるとな、だんだん眠くなってきて文字列の塊が人のかたちに見えてくるときがある」

「夜遅くまで起きてるからや。アンタは低血圧なんやし、しっかり寝て次の日に備えなアカンよ」

「せやな。頑張って働かな」

 そう云うと三太は、おもむろに炬燵の上のコーヒーカップに手を伸ばし、ちびりと縁を舐め、

「――なにかをつくるとき」と独り言のように呟いた。

「なにかを創作するときにな、最後の最後、話を締める段になって夢落ちみたいに流れをぶちこわしたくなるときってあるやろ」

 答えを求めるわけでもないようなので、直子はテレビ画面に視線を戻した。

「だけどな、実際は毎回そういうわけにもいかないから、今まで積み重ねてきた筋から引き伸ばして話を進ませてしまうんやな。自分ではじめたはいいけど、自分で――自分の意思というよりは自分の意志で――終わらせられなくなることが多々ある」

「好きなように終わらせたらええやんか」

 直子が原稿用紙に目をやると、妙に角張った神経質そうな字が、呪文のようにつらつらと並んでいた。

「ふむ。ザッツオーライ、その通り」

「なんやイラッとするな」

「コルタサルの小説で、技師たちはプラタナスの木を目印にしたけど、俺らはプラタナスと云われてもパッとイメージが湧かんから目印にもできひん」

「スズカケノキやろ。知っとるわ。一緒にせんといて」

「こりゃ失敬。マア、そこでだ、俺のような者にはハナからひとつしか方法が残されていないワケよ。……あの小説の最後憶えてるか」

「ええと確か、――なぜこんなに飛ばさなければならないのか、なぜこんな夜ふけに他人のことにまったく無関心な、見知らぬ車に取り囲まれて走らなければならないか、その理由は誰にも分からなかったが、人々は前方を、ひたすら前方を見つめて走り続けた」と直子がそらんじるのを、三太は驚愕の表情で見つめた。

「直子ちゃんすごいやん。登場人物の資質があるんとちゃうか。」

「そんなこと云われても全然嬉しないけどな」

「とにかく――技師はそう思ったんやな。だけどもちろん、その思念をまったく差異なく引っ張ってきてもええかっちゅうとそうもいかん。なぜなら、現実の俺の周りには、直子ちゃんをはじめとして、関心をもってくれる人もいれば見知った人々もおるからや」

「虚構と現実を混同しとるな」

「そうそう、そのへんが一緒くたになってきてしまってどうしようもない状態、そんな状態が俺に合ってるんやないかと最近思ってきたわけで、結局のところ、」

 直子は続く言葉を待ったが、三太は黙り込んだ。ついには痺れを切らして、「結局のところ、なんやの」と訊くと、もったいぶった様子で原稿用紙に数文字書きつけながら、「全部差っ引いて、ひたすら前方を見つめて走り続けることに決めた、ということやな」と云った。

「それは妥協ではないん」

「珍しくな、妥協なしの前進や」

 テレビの音がだらしなく流れ続ける居間の真ん中で、三太の握るペンはすらすらと紙上を走り、最後のマスでぴたりと止まった。

 

 

 はじめてのボーナスで、三太は中古のカメラを買ってきた。昔父親がくれたカメラと一緒の型やったからな、と言い訳がましいことを云った。喫茶店のためにお金を貯めるという約束のはずだったが、久しぶりの数万円の贅沢にどうこう口出しするわけにもいかず、直子は黙って三太の嬉しそうな顔を眺めていた。三太はカメラを買ってから一日一枚、部屋の写真や窓からの景色、室外機に寝転がる猫などを撮った。数ヶ月は飽きもせず半径数メートルの風物写真を撮り続けていたが、やがて撮るものもなくなったようで、主な被写体は直子になった。小説には手をつけず、ぱしゃりぱしゃりと毎日毎日、一日一枚どころかフィルムを一本使う日もあった。

「もっと外に出てなんか撮りや」と云っても、ぱしゃりぱしゃりとシャッター音はやまず、

「ああ、うっとおしい」

 直子が飛びかかると、三太はひらりと身をかわしながら、

「なにも撮らんかったらフィルムがもったいないやろ」と笑った。

「じゃあ、せめて一緒に撮ろうや。それなら文句ないやろ」

 そう直子が云うと、突然天啓を得たように三太の顔が輝いた。

「おお、ええよ。そうしよ。ちょっと待てよ、一張羅着てくるから」

「なんなん、その半端な格好のつけかたは」

 直子はしばらく、三太がごそごそと奥で物音を立てるのを聞いていたが、やがて肥えた尻を上げ、「私も着替えてくるわ」と云って物置と化している二階へ上がっていった。

 二人は着替え終わると玄関の前に立った。三太の云うところの一張羅は、直子に買ってもらった三万円の背広だった。外は春の日差しが燦燦と照っており、三太は、暑いなと呟いた。

「直子ちゃんの一張羅はワンピースか。うん、かわいらしい」

「かわいらしいってなんやねん。かわいいって云いや」

 三太が向かいの家の郵便受けにセルフタイマーでカメラを据えると、二人は寄り添って格好をつけた。

「ほら来るぞ、はいチーズ」

 

 直子と三太はさらに二年の時を経て喫茶店を開いた。三太はますます写真に凝り出したが、思い出したように小説を書くこともあった。直子が勝手に応募した三太の短篇小説は地方新聞の文学賞で佳作を貰った。三太は副賞の新聞社謹製原稿用紙を『暗夜行路』を筆写するために使った。喫茶店をやりはじめてからというもの、一向にお金は貯まらず、式を挙げずに二人は結婚した。ある春の日に撮った背広とワンピース姿の写真は二人の結婚写真となった。

 

 

 <了>