ゆめのこ灯し

大山三ダース

 

 

 

 

 四角い枠に二つの円、どこにでもあるような伝統的な和室照明を見上げ、そこに自身の家族を重ねてみる。四角が自分で外円が妻、そして内側の一番小さな円が娘。彼を中心とする三人家族は、身のまわりのもの――たとえば、三つのかたちを備えたもの――に見立てる事が容易な、ごくありふれた、普遍的なかたちをもつ家族だった。けれども、四角い笠と円い電灯、その全体を焦点の合わぬまま見上げていると、引き合わせの等号式が瓦解し、瓦ひとつひとつがてんでばらばらに広がりパズルめいた様相を呈した。正方形はひしゃげた菱形となり、菱形は等辺を失って舞妓が履くポックリのような台形となった。台形は赤子の如くむずかって正体をなくし、一筆書きの四角、角のない四角となってふらふら宙を泳いだ。角のない四角はもはや四角とは云えなかった。照明を構成している三つのかたちはピントが暈けて総じて不明確で、霧の向こうに見る相似の図形のようだった。そこに自身の家族の姿を見ていたはずの彼の目は今、小さな、オレンジ色をしたひとつの点に自然と向けられるのであった。

 

 照明の中心では豆電球だけが点っていた。

 

 

 こまごまとした仕事が増え発狂しそうになった。円満な家族との生活も何やら疑わしいものに思えてきた。その状態から自らを恢復させるべく、季節が秋に変わるころ、彼は東北の実家に妻と娘を預けて単身京都にやって来た。

 彼はいまだかつて発狂した事はなかったが、頭の中の行司がハッキョーイという良く似た語感の言葉を連呼しはじめている事には気づいていた。相撲は、おそらくも糞もなく絶対に、相対する二人の相撲取りが土俵上にいなければ勝負にならないが、彼の場合は行司がいるのみで、その行司が彼自身だった。彼は、危惧していた事が現実となったと感じた。

 というのも、いつかこうなる事がわかっていたからであり、というのも、大学を中退して仕事に就いた時点でこんな仕事はやりたくないと思っていたからである。しかし、懇ろになっていた当時の女、つまり現在の妻が気づけば身重になっており、にっちもさっちも働くしか道がなくなってしまった。モラトリアムの終焉。果たして社会の人となった彼は選ぶ余裕もなく職に就いた。あとは、転がる石のようにコロコロコロコロ働き続けて娘が誕生、仕事を終え夜遅くに帰宅するとキッチンには焼き魚と茶碗、白飯をよそって冷えた茶で流し込む、食後にハイライトを一本、最後に湯呑みをぐっと仰いで立ち上がり、蛇腹の間仕切り越せば、妻と娘が「リ」の字で眠っている。いつのまにか「リ」の一片を担うようになった娘の前髪を掻き上げ、額にチュッチュッと接吻しているうちに一抹の寂しさを感じ、しかしまた翌日はコロコロと働く。彼は仕事に対して何の希望も抱いていなかったため、当然の帰結として仕事が出来る男ではなく、責任のある仕事はついぞ任された事がなかった。けれども、無能な者の宿命、あってもなくても大差ない些末な業務は増えるばかりで、彼は己の核となるものを知り得ぬまま働き、働き続けるまま、泥溜まりにずぶりずぶりと溺れていった。

 彼は耐えられなかった。なぜ愛する娘、その顔が目の前にありながら額に口づけしなければならないのか。起きているときにキスしたい、口と口でキスしたい。そんな直截な、思春期盛りの男子のような考えが浮かんだとき、彼は改めて娘を愛していると感じたのであった。これは、彼が生まれてはじめて判然と立ち止まった瞬間だった。彼は、妻がこの娘を宿した事に因をなすコロコロを、精神の上で断ち切り、次いで実地でも断ち切らなければならないだろうと考えた。いつまでもはじまらない相撲に、いつまでもはじまらないゆえに物言いをつけなければならない。

 彼はこうして仕事を辞めた。

 仕事を辞めた以上、彼を悩ませていた一方の事柄が消え、多少は荷がおろせるはずだった。京都に引越すに際して妻子をともに連れてくる事もちらと考えたが、それは何より目的にそぐわない事であり、実際の問題として金銭的に不安があった。幸い、東北の郷里にいる両親と妻の仲も良好であり、何よりこんな夫、こんな父とは離れて暮らしたかろうと思い、彼は別居を選択した。

 

 居を定めたのは京都の衣笠にあるくらげ荘という貸アパート、二階の一室だった。くらげ荘は木造二階建て、一階四室、二階四室のぼろアパートで、間取りは全室同じ、六畳一間に申し訳程度に台所と便所がついていた。

 彼は殺風景な部屋の中で、日がな一日、蒲団を揉んで暮らしていた。これは怠けていたという側面もあるが、部屋に暖房器具がなかったため実用的な意味もあった。京都は市内でも場所によって体感する気温に差があり、北の方は特に底冷えが酷かった。引っ越した時期が時期なだけに、蒲団に包まっていなければすぐに風邪をひいてしまう。十年前、大学入学にともなって京都にやって来た彼は、蒲団が実家から届くまでの間、夏用の寝袋で寝ていて風邪をひいてしまった。十年の歳月は同じ失敗を繰り返さない程度には人を成長させてくれる。

 蒲団は心地良い。厚手の掛蒲団の中ほどを揉んでいると心が安らかになる。冷たい肉片を揉んでいる感覚。手のひらが満たされ、腕を通って頭まで快感が達すると、安らかさとともに昂揚感も生まれてくる。この場合は掛蒲団の表面が冷たい状態であることが必要で、揉んでいるとどうしてもその部分が暖まってしまうため、次々と手のひらを移動させなければならない。ときにはうずうずとする右腕を蒲団の中に引っ込めて、掛蒲団と手のひらの温度差をつくり出してやる作業が必要となる。彼にはひとつの奇癖があり、気持ちの高まりを感じると舌が丸まってしまう。正確には折れ曲がる、と云った方が良いかもしれない。蒲団を揉んでいても舌が丸まる。舌先四分の一ほどが折れて残りの部分と密着する。そうすると顎の下からぴりぴりと何かが立ち上ってくる。彼はこのときの自分の顔を鏡で見た事がなかったが、おそらくすこしだけしゃくれて見えるはずだと考えていた。

 

 

   ◇

 

 

 京都に来て数日は嫌な夢を見た。

 ふと気づけば見知らぬ男が家に侵入しており、寝ている周りをどたどたと歩く。現実のような質感を持って存在が感じられるので本当に恐怖した。体が動かないために男の足先しか見えない。その足音の重量感から男である事が知れた。悪夢と金縛りが肩を並べてやって来る、これには参った。

 男の気配だけが感じられる事もあった。如何なる理由か、そのときには上手い具合に身体から視点だけを離脱させることが出来た。映画のカットを割るように視点は切り替わり、窓の位置から蒲団の上を見下ろすと、どす黒い靄に包まれた自分の体が横たわっていた。夢の中の戦慄は現実に持ち越され、目が覚めると倍幅の戦慄が生身に襲ってきた。粘着質にまとわりつく気配を感じながら、真っ先に思い浮かべたのは、良く取り沙汰される臨死体験の類だったが、その体験が私の場合のように精神の問題によっても起こるのかどうかは良くわからなかった。

 

 いつものように蒲団に包まり夢と現を往来していると、表に戸を叩く者があった。ドアチャイムがないので戸を叩くのは仕方ないとしても、誰にも引越し先を教えずこちらに引っ越してきた私のところを訪ねてくる人間が知り合いであるはずがなかった。

「あの、すみません」

 嗄れた声。すまないと思う気持ちがあるならば戸を叩くのをやめてもらいたいところだが、そんな理屈が通るほど世間は甘くないという事も重々承知している。

「あのう、いませんか?」

 仕方がない。もやもやとする頭を振り切り玄関に立った。人が通れない程度にわずかに戸を開け外の様子を窺うと、そこにはぼさぼさの長髪を頭の後ろで結った、売れないバンドマンのような小柄な男がいた。

 全体に印象が薄い男だった。

「……どちら様ですか?」

「あ、どうも。隣の松田です。ちょっと今鍋つくってるんですけど、味噌が足りないんで貸してもらえませんか?」

 味噌? 新聞勧誘より厄介な人間かもしれない。何かを貸し借りするという事はそこに往復が生じて面倒も増える。さっさと用件をすまそうと、コンロ脇に置いてある味噌のパックからお玉でいくらか掬い、ラップに包んで隣人に差し出した。

「ありがとうございます。引っ越してきたばかりなんですよね? また機会があれば鍋ご一緒にどうですか?」

「……ええ、ありがとう。考えておきます」

 男は球状の味噌を手に隣室へ戻っていった。ふらふらと歩く男の後ろで、結った髪もふらふらと揺れていた。どこか印象に欠ける男の姿にいくらか違和感を感じながらも私は部屋に戻った。そして、再び蒲団に潜り込み、時間的には午睡となる眠りへと落ちていった。

 

 夢と現実の往来の感覚は陸続きだった。自分がどちら側にいるかもわからぬまま、隣人が訪ねてくる気軽さで心に不快な影が到来した。頭が働くうちは、それらが免罪符であるかのように、妻と娘の顔を思い浮かべるようにした。

 自らが一度築き上げたものを壊すのは容易いが、カテゴライズされ名を与えられたものを打ち崩す事には常に責任という理不尽な縛りが付きまとう。行為とは関係なく働くこの力が、人々をがんじ搦めにしている。そして、カテゴリーから逃れたものは判然と知る事が出来ない。

 

 例えば夢。

 例えば愛。

 

 今まで後回しにしてきたこれらを考えなければならなかった。夢や愛ではまだ届かない、名を与えられていない不確かな世界。そんな事を考えながら妻や娘の事を思う。それは矛盾した思考だが、考えずにはいられない。妻や娘の姿形、それらが実像を結ぶか結ばないかの土俵際。寄る辺なき精神が何かを、豆電球のように小さな何かを、待っている。待っている。追っている。追い求めている。どこからか聞こえてくる、ノコッタノコッタという微かな声。ノコッタ、ノコッタ。人を小馬鹿にしたような。ノコッタ、ノコッタ。耳元で淡く、囁くように。ノコッタ、ノコッタ。私は、誰と/何と組み合えば良いのか。

 

 ノコッタノコッタ、ハッキョーイ。

 

 コンドルが飛んでいる。空が町の色を映して茶色く広がっている。散文的な建物や川の流れを切り裂くように、鋼鉄の塊が走っている。鋼鉄の塊から吐き出された煙は、のっぺりとした空と陸の境界をますます曖昧にする。川の真上に浮かぶ線路から煙と熱気が落ちてきた。どうやら鋼鉄の塊は電車のようなものであるらしい。駅舎のベンチに座っている、まだあどけない顔をした少女が、こちらに手を振っていた。顔が良く見えなかったが、わたしはさっと手を上げて返事をした。

 

 目指すデパート――というのも、わたしはなぜかデパートを目指していた――は、岩壁のような外観だった。その隣にはごつごつとした本物の岩壁が聳えており、デパートの入口と間違えてそちらの岩肌にぶつかっていく人もいた。わたしは間違える事なく、カモフラージュされた入口の間からデパート内に滑り込んだ。

 一階のフロアーの手前半分ほどがケーキ屋だった。歩くのにも苦労するほど混雑した店内で、色とりどりにディスプレイされたケーキを見て回った。茶色いメイド服を着込んだ売り子たちが、途切れる事のない笑顔で商品を薦めていた。と同時に、売り子たちはくるくると独楽のように回ったり、かと思えば客から客の間を反復横跳びのように移動したり、風に舞う枯葉の如くあちらこちらに動くので、混雑が撹拌されて余計に混雑した。客と売り子から成る人ごみを掻き分けて、何ベリーかよくわからないが、とにかくべリー類がこんもりと盛られたタルトの前までたどり着いたとき、ウーウーと空襲警報が鳴った。一拍遅れて、突き上げるような衝撃がフロアー全体を貫いた。客も売り子も平穏に身を浸していたため、おろおろとするしかなかった。わたしは走った。誰しもが恐慌に陥る中、わたしは一人で鼠の如く外へ跳び出した。

 

 コンドルが旋回し、茶色く広がる空にコントラストの弱いマーブル模様を描いている。侵略者はどこにも見当たらなかった。ただ気配だけが感じられる。町全体を呑み込むほどの巨大な力。圧倒的な違和感、けれどそれは遥か昔から存在する感覚。姿は見えないが、ウーウーという警告音がわたしを急き立てた。わたしは川に沿って走り出した。川筋を伝い戻っていくと、駅前の喫茶店から女の子が空を見上げながら、恐る恐るといった様子で出てきた。わたしは息を整える暇もなく呼びかけた。

 

 ――栗色の髪、切れ長の目。

 

 こちらを振り向いた彼女は、泣いてるようでもあり、笑っているようでもあった。少女の顔が目に入った刹那、頭がズキンズキンと脈打った。可愛らしい女の子は、わたしの目にその姿を強烈に焼きつけた後、跡形もなく消えた。

 散文的な町だけがそこにあった。

 

 朝、寒さで目が覚めた。ぼんやりと天井を見つめながら眠りの気配を待ったが、肩口から冷気が入り込んできてどうにも上手くいかなかった。蒲団から這い出し、便所で放尿すると幾分頭がすっきりした。秋のうちはまだ良いがこれからますます冷え込みが厳しくなってくる。もう蒲団だけでは限界かもしれない。引越しに際して用意したのは蒲団と台所用品、それに少量の食料だけだった。安いもので良いから暖房器具を買いに行こうと思った。

 久しぶりの外出は案外気持ちが良かった。気温は低いが、太陽が乾いた光を投げかけている。京都の町が持つ、ある種の冷たさが自分の身体の輪郭をくっきりと意識させてくれる。平日の昼に仕事以外で外を歩くのは珍しい事だった。土日休みという一般的な勤務形態で、平日は忙殺されていた。週末とたまにとる有給休暇は家族サービスに費やした。娘は活発な子で、私と妻に旅行に連れていくよう頻りにせがんだ。舌足らずな言葉を重ねて己の欲望を伝える娘の様は如何にも可愛らしかった。私は幸福で、紛れもない愛を感じていた。しかし、娘に対する感情と妻に対する感情を並べてみたとき、その質の差に戸惑う事となった。自己愛と比しても激しく深い愛情と、安定した確からしい愛情。親としての感情と夫としての感情の差異と云ってしまえばそれまでかもしれないが、その類型化された定義が酷く脆いものに思えた。私は娘を深く愛していた、しかし、そう云うだけでは届かない何かがあったために、私は青年期を過ごした京都にやって来たのだった。

 

 阪急西院駅の近くの電器屋で小ぶりのハロゲンヒーターを買った。蒲団と併用すれば多少冬の寒さが凌げるだろう。ずいぶん遠い距離を歩いたが、良い運動になった。寝ているだけでは体力は減るばかりだ 西院近辺は学生時代に馴染みのある場所だった。西院の東、壬生に住んでいた私の行動範囲は南北が五条から二条まで、東西が大宮から西院までと大体限られていた。それは元来の出不精によるもので、当時付き合っていた彼女――現在の妻――もしばしば呆れていた。休日にあまり外に出かけないのは今も変わっていないが、娘が生まれてからは多少出かける頻度が増えた。やはり、娘には家の中でゲームばかりするような子どもに育ってもらいたくはない。

 大通りの喧噪を避け、四条通の一本南の通りをあてもなく歩いていると、娘からの連想で不意にひとつの事柄が思い出された。それは「常にシャッターが下りているゲームショップ」についてだった。

 開かずのゲームショップは当時の私にとって大きな謎で、妻との会話の中にも何度も登場していた話題だった。利益が上がらず潰れてしまったのならば納得出来る。繁華街から一本通りを外れると、途端にシャッター街に出くわすのはよくある事だ。小規模なゲームショップやおもちゃ屋の経営も楽なわけはないだろう。しかし、そのゲームショップの前には、錆びついたシャッターに反してピカピカの置き看板が置かれていたのだ。営業していないにも関わらずである。はじめは休業日に看板をしまい忘れたのだろうと考えたが、どうも違うようだった。通りかかる度に目を向けたが、その様子に一向に変化は見られなかった。いつも閉まっているシャッター、いつも表に出ている置き看板――謎は謎のまま、いつしか目を向ける事も少なくなり、私は京都を離れた。

 あのゲームショップはまだあるだろうか。懐かしさに駆られながら細く続く通りを東に歩いていくと、右手に見覚えのある看板が見えた。

 

 ――テレビゲーム、ファミコン、おもちゃ。

 

 変わらない。十年の時を経ているのにまったく変化のない、ピカピカの置き看板がそこにあった。学生時代の謎が変わらぬままそこにあった。すこし奥まったところに設置されている、控えめなところも相変わらずだ。変わったところはひとつ、常に閉まっているはずのシャッターが上がっている。覆いのない店の窓からはオレンジ色の光が弱々しく漏れていた。まるで太陽の白色に必死に逆らっているように――。

 積年の謎がひとつ解けた。開かずのゲームショップは「開かず」ではなかったのだ。

 

 レトロな模様が彫りつけてある木製の扉を開くと異様な雰囲気が押し寄せてきた。陳列されている商品も時代遅れな品ばかりで妙といえば妙だが、それよりも並べ方が珍妙だった。ガラスケースなどはなく、店内の中央に光沢がかった時代物らしい木の長机が三脚あり、その上に往年の名作ゲームソフトが箱入りで置かれている。商品の間隔は不自然なほど空いており、一個一個の商品がまるで宝石のような存在感を与えられている。壁面に設置された棚も机と意匠が統一されていて、こちらはロボットの人形など、時代遅れな玩具が並べられていた。何より不思議なのは値札の類が一切なく、文字情報が極端に少ない事だった。

「すみませーん、誰かいませんか?」

 店の奥に声をかけるが誰も出てくる気配がない。平常ならば見知らぬ店に一人で入る事もあまりないし、店員と話したいと思う事も皆無なのだが、この店に入った瞬間から何故か大胆な気持ちになっていた。

 もう一度店内を見渡す。なるほど、これは謎にふさわしい奇妙な店だ。店全体が見知らぬ店主のひねくれた世界観を表しているかのようだった。

 たとえば――入口から対角の棚に、ひときわ目立つ、バイク用のヘルメットのようなものがあった。色も派手で黄金色、それを被って然るべき格好をすれば戦隊モノのヒーローになれそうな代物だ。他の商品は一点ずつしか置いていないが、それは二つ並べて置いてあった。近寄ってじっくりと見てもヘルメットとしか云いようがない。形はジェット型で、前面にシールドが付いているが、その部分は透明ではなく真っ黒だった。触って材質を確かめるが通常のシールドより多少厚みがあるという事が知れただけだった。

「アンタ、夢は見るか?」

 ギョッとして振り向くと店の奥に白髪の老人が立っていた。おそらく店主だろう。

「あ、すみません。勝手に触っちゃって……」

 老人はにやにやしながら話を続けた。

「一日六時間寝るとするやろ。ほしたら人生のどれくらい夢ん中で過ごしてると思う?」

「は?」

「こうゆうもんはパッと計算出来なアカンで。二十四時間分の六時間で四分の一や。単純に六時間を夢っちゅう事で考えたら、自分の四分の一は夢から出来てる事になるわな」

「はあ」

 私は、店主の唐突な出現、意図不明な質問に圧倒されながらも、風変わりな店の主人が想像していた通りの風変わりな人物である事を嬉しく感じた。

「アンタ、ウチは初めてか?」

「あ、ええ。前から気になっていたんですけど、その、なかなか機会がなくって」

「ハッハッハ、そりゃそやな。店開けるのは三ヶ月ぶりやからな」

 三ヶ月ぶりというのが長いのか短いのか――少なくとも私は短いと感じた。その程度の周期で店を開けているとするならば、学生時代の私はよほど巡り会わせが悪かったとみえる。

「それに興味があるみたいやな」店主の視線を追うとヘルメットに行き着いた。

「こんなようわからん店の中でも特に浮いてるやろ。いいところに目をつけてくれた。それがウチの目玉商品やな」

「これってヘルメットですか?」

「まあ基本的には、な。頭に被るもんではある」

 店主はゆっくりとこちらへやって来て基本的にはヘルメットであるらしいものを手に取った。はじめはその総白髪の頭から結構な年齢かと思ったが、近くで見るとまだ五六十といった印象だった。オレンジ色の薄暗い照明が歳を曖昧にさせる原因かもしれない。

「被ってみるか?」

 店主がいたずらっ子のように云った。

「被ってみるかって……何なんですか、これ」

「気になるやろ?」

「そりゃあ気になりますよ。気になるから聞いているんです」

「けっこうけっこう」店主はヘルメットを持ったまま陳列台に寄りかかった。

「人生五十年という時代は遥か彼方へと去り、今や人生は八十年になった。それはあまりにも長く、あまりにも短い。

 私もその基準からいうと三分の二は生きた。生きすぎたと云って良いかもわからんな。しかし、そんだけ生きても案外、人は漠然と生きてしまっているもんや。生きた時間が長ければ長いほど、若いころ探してたもんが曖昧になってくる」

 唐突な話題が好きな人のようだ。酔っぱらいの飛躍に似ている。

「人は曖昧なもんは好まんように出来ている。要するに決めたがりなんやな。この答えはこれ、あの答えはあれ、とまあ判断したり型にはめ込んでいくわけや。もちろん、型があるから面白い事もあるが」

 店主は何かを探るように宙に視線を投げた。

「結局、現実において、これはこれと決定していく事からは逃れられへんわな」

「それでヘルメットは……」

 私が痺れを切らしてそう訊くと、店主はにっと笑ってこちらを見た。

「そこで話は戻る」

「戻るんですか」

「アンタ、夢は見るか?」

「まあ人並みに見ますけど」

「けっこうけっこう」店主は満足そうに頷いた。

「人は人生の四分の一を夢の中で過ごしている。八十年生きるうちの二十年、夢の中で生きる。まあ単純に計算した場合な。

 夢は青年に成長する。ロマンチックにゆうたら、夢がハタチを迎えたとき、人は死ぬんやな」

 意図が読めない分、何か惹きつけられるものがあった。

「現実では決定から逃れられないが、夢の中は違うかもしれへん」店主がヘルメットをぽんと叩いた。「そこでこのヘルメットみたいなマッシーンの出番や。おにいさん、夢の少年に会いに行こうやないか。どや? 一日一万円でレンタル出来まっせ。ここの奥に蒲団敷いて使うんならなんと特別価格五千円! この機会を逃したら後悔あるのみや。難しい事は云わへん。単純に、夢の中へ行ってみたいと思いませんかっちゅう事や」

 

 

「それで、レンタルしてしまったというワケですか」

 私は何故か隣人の部屋にいた。目の前には煮える鍋がある。

 謎のゲームショップから一辺三十センチメートルほどの立方体を持ち帰ると、タイミングが良いのか悪いのか、ちょうど松田が訪ねてきた。味噌のお礼に鍋をご馳走させてください、との事だった。断る理由も見つからず、腹も減っていたので邪魔させてもらう事にした。

「結果的にはそうなるね」

「夢の中の少年ですか……」

 松田は肉を口に運びながらも頭を回転させているようだった。松田の部屋はカセットコンロと鍋を置く場所にも困るほど雑然としていた。松田は芸大の学生で漫画家志望だという。そう聞かされる前、部屋に入ったときから漫画を描いているのだろうという事は知れた。トレース台があり、羽根ペンやスクリーントーン、描きかけの原稿などが無造作に散らばっていた。やはり漫画の数も多く、雑誌、単行本が数えきれないほど重なりオブジェを形成していた。しかし、だからといって汚い部屋と断言する事には少し違和感を覚えた。確かに散らかっているのだが、雑然とした中にもまとまりが感じられる。手際良く鍋の準備をする松田を見て、外見に似合わず多少神経質なところもあるのかもしれないと思った。

「面白そうじゃないですか」

「そうかな」

「だって興味があったから借りてきたんでしょう、それ」

 松田が箸で指したその先には箱から出したヘルメットがあった。誰か他人に見せてやりたいという気持ちもあって隣室に持ってきてしまった。「確かに面白そうではあるね。もし本当に夢の中へ行けるなら、だけど」 興味はある。今回の京都滞在に合わせるように夢を多く見るようになった。そんなとき目の前にゲームショップ、そしてヘルメットが現れた。「うーん、どういう感じになるんですかね」「さあ、ありえない話だと思うんだけどな」 松田に遅れをとりつつ白菜を茶碗によそう。ちょうど良い具合に汁が染みている。「あ、肉もじゃんじゃん食べてくださいね。いっぱい買ってきましたから」「ああ、ありがとう」 この松田という学生にはどこか打ち解けやすい雰囲気があった。最近、仕事以外で初対面に近い人間と話す機会はほとんどなくなっていたが、松田とはあまり気を遣う事もなく話す事が出来た。そう頻繁でなければこんな誘いに乗るのも悪くない。

「たぶん、明晰夢みたいな感じなんじゃないですかね」

「明晰夢?」

「聞いた事はあるでしょう。夢を夢として意識して見れたり、夢の内容を好きなように変えたり出来るっていう」

「ああ」

「俺もあんま詳しく知らないんですけどね。たぶん俺も明晰夢を見てる方だと思うんで」

「へえ、それって夢の内容をはっきり覚えてたりするってこと?」

「それはけっこう序の口ですね。悪夢からハッピーエンドの大逆転も場合によっては可能ですよ」

「そりゃすごい。そんな経験ないなあ。あ、でもたまに途中で夢だと気づく事はある」

「そうそう。なんか訓練というか鍛錬というか、意識する事で誰でもある程度は見れるらしいですよ。向き不向きはあるみたいですが」

 箸の先をくるくると回しながら松田が説明する。

 最近良く夢を見るようになったが、私の場合はどちらかというと金縛りに近かった。見知らぬ男の夢もそう、少女が出てくる夢にしてもそう。夢と現実の間はまるで大陸が如く地続きで、知らぬ間に互いの領土に踏み込んでいる、そのような感覚があった。

「でも、こんなもん被ってちゃんと眠れるんですかね?」

「うん。問題はそこだよね」

 二日間のレンタルで二万円を投資した以上、意地でも眠らなければならないだろう。

「どんな感じだったか教えてくださいね」

 松田は箸の動きを止めずに云った。見ると鍋の中身は野菜ばかりになっている。そういえば学生時代は私も肉ばかりを良く食べた。いつからか肉食から菜食中心に切り替わった。これが歳を取るということなのだろうか。この男の若さに接しているうちに否が応でも自分の置かれた立場が思い出される。責任も常識も、不発弾を身の内に抱えるような緊張を強いる。決して高くはないが、それでも決して低くない確率が現実に狙いを定めたとき、爆心には何があるのか。私はその答えを知らないが、問いを考える事は常にあるイメージを喚起させた――それはすなわち、妻と娘のイメージ。

 

 空襲警報から一晩で町の人々の半数が消えた。ふと気づけば消えている、そのような消え方だった。何者かが着実に侵攻してきている気配が感じられた。

 人々の消失が収まった翌日の昼、残った大人たちが駅前の喫茶店に集まってきた。各々、椅子に腰掛け、陰鬱に俯いている。子どもたちはどうなったのだろうか。あの栗色の髪の少女は無事でいるだろうか。

 喫茶店のマスターも消えていた。皆押し黙ったまま動く様子がないので、勝手にカウンターに入りコーヒーをいれる事にした。三列に走る棚からコーヒーカップを取り出してカウンターに並べていく。カタ、カタ、という音がログハウスを模した店内の壁に吸い込まれる。いれたてのコーヒーをカップに注ぐと湯気が立ち上り、わたしの視界をうっすらと覆った。

 

 朝、真っ先に首の痛みに気づいた。一瞬何が起こったのかわからなかったが、特に何も起こってはいなかった。ヘルメットの仕業である。やはりヘルメットを被ったまま寝るのは非常識だ。視界はシールドのせいで薄暗く、内部も自分の呼気で満たされ息苦しかった。

 結局――

「いつもと変わらなかったな」

 そう独りごちながらヘルメットを外した。夢は見る事が出来たが、その内容が格段変わったとは思えなかった。前日の夢とストーリーの共有があったのが妙といえば妙だが、果たして一万円の価値があるかどうか。

「価値、か」

 それも店主が云った現実的判断から生じるものか、そう考えるとあながち騙されたとは云えない。とりあえずは今日もヘルメットを被って眠ってみるしかない。料金先払いとはあの店主もなかなか強かな人間だ。このヘルメットがゲームショップの存続に寄与しているとするならば、私は学生時代の思い出を駆動させ続けさせるために金を払っている事になる。そう考えると多少愉快な気持ちになった。

 

 昼食を食べに近くの喫茶店に行った。昔から定食のボリュームに定評がある店だった。マスターはまだ元気にしているだろうかとカウンターの方を見渡すと、アルバイトの女の子が視界に入った。

 

 ――栗色の髪、切れ長の目。

 

 夢に出てきたあの女の子と瓜二つの女の子がそこにいた。夢の少女がそのまま成長したならばこんな風になるだろう。そう思うのに躊躇いが感じられないほど良く似ていた。

 

 くらげ荘に帰り扉を開けると、玄関に猫が蹲っていた。真っ黒な猫だった。いつの間に入ってきたのだろうか。

 いつだったか、娘が猫を飼いたいと駄々をこねた事があった。どこかで野良猫でも見てきたのだろう。子どもは一度そうと思い入れると簡単には止まらない。娘の駄々も執拗に続いた。しかし、結局我が家で猫を飼う事にはならなかった。どうしてその願いを退けたのだろうか。私も猫が好きだったはずだ。

 黒猫の鼻先に指を出すと噛みついてきた。痛みに吃驚して頭を小突くと一瞬退くが、再び噛みついてくる。それには飽きる事を知らない子どものようなしつこさがあった。

 埒があかない、私は黒猫の横を通り抜けて部屋のなかに踏み込んだ。そこには見覚えのない、ふかふかとしたカーペットが広がっていた。一歩踏み出すごとにニャアニャアと効果音が鳴る、愉快なカーペットだ。特に悔しくもないのに地団駄を踏んでみると、やはりニャアニャアと鳴く。

 効果音を後に残して台所に行くと、そこでは蟻の塊が床をびっしりと埋めていた。黒々と蠢く蟻たちのせいで、そこだけぽっかり穴が空いているようにも見える。

 奇怪な場面に出くわして、私はニャアと叫んで、すこし宙に浮いた。

 

 朝、真っ先に首の痛みに気づいた。一瞬何が起こったのかわからなかったが、特に何も起こってはいなかった。ヘルメットの仕業である。ヘルメットを外して頭をもたげると、こめかみにも小さな痛みが走った。

 ヘルメットのおかげかどうかわからないが、楽しげとも怪しげとも云える夢を見た。しかし、まだ夢の少年とやらは出てこない。このヘルメット型装置の性能は疑わしいところだが、既に料金を払ってしまっている以上、今日もこれを被って寝るしかないだろう。

 昨日見た夢について松田と話してみようと思い、部屋を出ると、ちょうど隣の部屋から松田が出てくるところだった。

「あ、どうも」

「あれ、どこか出かけるの?」

「はい。ちょっと」

「そっか」

「何か俺に用事ですか?」

「あ、いや特に用事って事じゃないんだけど」

「もしかして昨日のヘルメットの件ですか?」

 松田が笑いながら云った。気のせいか、髪の毛のぼさぼさ具合が増しているように感じられる。

「まあね」

「効果出るの早いですね。ええと……夜には帰ると思うのでそのときにでもどうですか?」

「ああ。特に急いでるわけじゃないからいつでもいいよ」

「夢は逃げませんからね。じゃあまた夜に」

「ああ、また」

 松田は階段を下りて行きかけたところで小走りに引き返してきた。

「思い出しました。俺も頼みたい事があったんですよ。ちょっと待っててもらえます?」

「いいよいいよ。こんな暇人に出来る事があれば」

 松田は自分の部屋に戻っていき、しばらくすると紙束を携えて出てきた。

「これなんですけど」

「君の描いた漫画?」

「そうです。もし良かったら読んで感想聞かせてください」

 松田は照れ臭そうに云った。

「お易い御用だ」

「ありがとうございます。なかなか他人に読んでもらう機会ってないもんですから」

 そう云うと松田は、カンカンと階段を鳴らしながらどこかに出かけて行った。

 

 松田が去った後、私は再び蒲団に潜り込み、受け取った原稿に目を通しはじめた。枚数は思ったよりも多く百ページ近くあった。投稿用というよりは学校での課題だろうか。芸大生というイメージから何か小難しいものを想像していたが、むしろ内容は明快にすぎるほどわかりやすかった。

 それは俗にいうロリコン漫画だった。

 むっちゃんという病弱な少女が大人たちに陵辱される。同級生や学校の先生、果ては父親まで、荒ぶる性欲を持つ男たちのオンパレードで、話の筋は素人目に見ても陳腐だった。エロ漫画のストーリーを適当に切り貼りしていけばこのようなものになるだろう。

 しかし、絵からは並々ならぬこだわりが感じられる。特に少女の描写は偏執的で、自分の中の女性像を容赦なく刃物で切り崩されるような錯覚さえ覚えた。

 どう感想を伝えるべきか。松田ははっきりとした意見を望んでいるだろう。この絵は賞賛に値する。エロ漫画には必要不可欠な職人肌のこだわりがある。

 私は感動していたのかもしれない。こんな一般的には忌避される過激な代物を、会って間もない隣人に披露してみせる松田の潔さ。

 原稿を枕元に置き、私は蒲団を揉みながらぐるぐると考えた。その中心点には娘のイメージが据えられている。不謹慎な連想と思われても仕方ないが、自分の中では実に自然な思考の流れだった。

 

 なぜなら私もロリコンなのだから。

 そこで不意に、ナボコフが書いた『ロリータ』の一節が甦った。

 

 ――ロリータ、わが生命のともしび、わが肉のほむら。わが罪、わが魂。ロ、リー、タ。舌のさきが口蓋を三歩すすんで、三歩目に軽く歯にあたる。ロ。リー。タ。

 

 私の場合は舌が歯にあたる事はなかった。蒲団を揉むにつれ舌先が丸まってくる。何歩進んでも行く手は茫洋としている。言い終わる事の出来ない単語、決定されてはいけない感情。蒲団に横たわり平常よりしゃくれた顔で、私は静かな快感に身を寄せた。

 

 再び消失がはじまった。

 喫茶店にいる大人たちが、一人、また一人と消えていく。侵略者は相変わらず姿を見せない。しかし、もはやわたしは侵略者などどうでもよくなっていた。出来れば最後に消えたい。それだけが望みだった。

 一人、また一人と消えていき、わたしは待った。うとうととするうちに夜になり、残りはわたし一人になっていた。またしても勝手にコーヒーをいれ、一人で飲んでいると、男の子と女の子が入ってきた。二人は音もなくカウンターの椅子に腰掛けると、わたしに向かってニッコリと微笑んだ。

 女の子はあの栗色の髪を持つ少女だった。少年と少女は良く似ており、まるで兄妹/姉弟のように見えた。二人のためにミルクを温め、ひとつずつ角砂糖を入れた。ミルクを入れたマグカップを手渡すと二人は顔を見合わせ再び微笑んだ。

 わたしは窓の方に目をやった。オレンジ色の炎が油彩絵具を塗りたくったように茶色い町を包み、ときどき強さを変えてちらちらと光った。町並と並行して走っているはずの鋼鉄の塊は消え失せ、主を失ったのか、あるいは従僕を失ったのか、存在感をなくした駅舎だけが窓枠に切り取られた絵画のなかにぽつんと残っていた。散文的な町はすっかり詩的な町へと様変わりしていた。

 視線をすこしずらすと、光の爆撃が行われ、オブジェが駅舎だけとなった町を歩く、ひとつの人影があった。判然とは見えなかったが、明滅するシルエットから人影だと知れた。ほとんどのものが消え去った町で、今にも消え入りそうな駅舎と人影はその印象の薄さにもかかわらず目をひいた。人影は歩みを止めずに駅舎の前を横切り、じきに窓からフレームアウトした。

 最後に見たその顔は笑っているようにも見えた。

 

 目の前にヘルメットがあった。いつの間にか寝てしまっていたらしい。窓からは朝の光が差し込んでいた。松田はどうしているだろうか。約束を破ってしまった。原稿を返しに行くついでに様子を見に行こう。そう思い、軽く顔を洗った後で隣室を訪ねたが松田は不在だった。

 やる事がないので再び蒲団に寝転んだ。昨日の夢は判然と覚えていた。とうとう夢の中に少年が登場した。あれが店主の云っていた夢の少年なのだろうか。だとすれば、ヘルメットを被っていないのにあの夢を見た事は少々笑える話だ。ヘルメットのレンタル期間である二日が過ぎた。返しに行ったとき店主は何と云うだろうか。おそらく、前にも増して饒舌に話しはじめるに違いない。わたしはゲームショップに行くのを楽しみに感じた。ゲームショップの事を考えながら蒲団を揉みはじめたとき、長らく放置していた携帯電話がなった。

 母の危篤を知らせる電話だった。

 

 母が死んだ。突然倒れたという。今年で還暦、まだまだ若かった。

 親の死は、誰しもいつかそのときが来るとわかっているが、誰しも永遠にそのときは来ないのでないかとも考えているものだ。危篤と聞き、わたしは故郷に飛んで帰った。しかし、飛んで帰ったというにはすこし語弊があるかもしれない。わたしは思っていたよりも冷静で、頭のどこかでは母の危篤を信じていないところがあった。京都駅に向かうバスの途中で下車し、ゲームショップにヘルメットを返却しに行った。案の定、店は閉まっていて、シャッターを叩いて店主を呼び出さなければならなかった。店主は相変わらずの飄々とした態度で「まいど」と云った。夢について話す事は出来なかったが、店主が別れ際に云った言葉を聞いてわたしは微笑まざるをえなかった。

「いい夢見れたやろ」

 

 故郷に着いたとき、母はもうこの世の人ではなくなっていた。久しぶりに会う父や親戚はどこかよそよそしかった。妻は判然とわたしに距離を置いていた。家出同然で飛び出したので、当たり前の反応といえば当たり前だったが、この反応には流石に参った。小さな娘だけは以前と変わらぬ態度でくっついてきた。実家では人目を避けるように娘の手を引いて公園へ連れて行った。

 娘をブランコに乗せ、その小さな肩を押すうちに、ふとある考えが浮かんだ。あの夢の少女は、母の夢の中の少女だったのでないだろうか。一度そう考えると、如何にもそうであるような気がした。母の年齢を考えると、その夢の中の少女は少女と云うには歳を取りすぎているように思われたが、サバを読んでいたのかもしれない。試しに、夢に出てきた少女を思い描こうとしてみたが、浮かんでくるのはわたしが中学生だったか高校生だったか、大分昔に見た、写真に写った母の少女時代の姿ばかりで、わたしは声を出して笑ってしまった。突然笑い出した父親の姿を、娘が近づき遠ざかりを繰り返しながら、小さな肩越しにキョトンと見つめていた。

 

 葬儀の後、一旦京都に帰った。少ない荷物ではあるが引越しの準備をしなければならない。すっかり実家に戻るつもりでいるところに父から電話があった。

 父は、早く戻って来いと云った。妻も娘も元気がない、お前一人の身じゃないんだから、というような事を云った。

 もっともだと思った。

 荷物をまとめる前に原稿を松田に返しに行った。約束を反古にしてしまってから数日が過ぎていたが、松田はさして意に介する様子も見せなかった。

「長い留守でしたね」

 秋も深まってきているというのに松田はよれよれのTシャツを着ていた。ぼさぼさの長髪も相変わらずだが、どこか以前よりすっきりとした印象があった。

「ちょっと色々あってね。これ、遅くなったけど返すよ」

「ああ、そういえば預けてましたね。すっかり忘れてました。で、どうでした? 俺の漫画」

「なかなか良かったよ。偉そうになっちゃうけど商業誌に載っててもおかしくないんじゃないかな」

「本当ですか? 嬉しいなあ。こういうのってあんまり褒めてくれる人いないんですよ」

 松田は顔を崩して笑った。本当に嬉しそうだった。

「だけど」わたしは腕を組みつつ云った。

「ストーリーはちょっとありきたり過ぎるかな。あと、初対面の人間に渡すもんでもないね」

「ですよね。どうかしてたんだなあ、俺。あ、でも初対面じゃないですよ。あの前に味噌借りに行きましたから」

「それだけじゃたいして変わらないよ」

 松田の部屋の前で二人で笑った。

「あ、そういえば」突然、松田が切り出した。

「俺、今あのヘルメット借りてるんですよ」

「え? ヘルメットって夢の?」

「俺も前からあのゲームショップ気になってて、ウチで鍋した日の次の日、ここで会ったじゃないですか。あの日、店に行ったんですよ。でも俺、金ないから。あの店で寝たら五千円だっていうじゃないですか。そのときからたまに店行ってヘルメット被って寝てるんですよ」

「ああ、だからあの日いなかったのか」

「……夢の話聞かせてくださいって俺がお願いしてたのに、約束破ってすみませんでした」

 納得がいった。どちらにせよ、わたしも眠りこけていたのだからちょうど良かったというべきだろう。

「いいよいいよ。それでどう? あのヘルメットの効果は」

 そう訊くと松田の顔が急に輝いた。

「あれ、すごいですね。はじめはうまくいかなくて世界の終わりみたいな夢ばっかりだったんですけど、慣れたら自分で世界がつくれちゃうって感じで。漫画描くときも役に立ちそうです。実際にやってみてこれは興奮するなとか一発でわかりますから」

「すごい実用的に使ってるんだな。うらやましい限りだよ。松田くんははじめからそういう素質あるみたいだったからね。でも、何事もほどほどにね。まあ、夢で捕まっちゃうって話はまだ聞いた事ないけど」

 松田は照れ臭そうに頭を掻いた。こうしてはにかんでいるところを見ると健全な青年に見えないこともない。

 松田に、もうすこしでここを引き払う事になると伝えると、酷く残念がった。

「そうなんですか? 残念だなあ。せっかく同志が出来たと思ったのに」

「同志?」

 あまり聞き馴染みのない言葉にわたしは面喰らった。

「俺にとっては同志ですよ。いやあ本当に残念ですよ。そうか引っ越しちゃうのかあ。……また、このへんに来る事があったら寄ってってくださいね。今度は水炊きでもしましょう」

「ありがとう。わたしも松田くんのおかげで楽しかったよ」

 

 松田と別れ、わたしは自室に戻った。

 部屋の荷物をまとめるのは案外早く終わりそうだ。京都の寒さに負けて買ったハロゲンヒーターは結局ほとんど使わなかった。実家に送るのも面倒なので引越しのときに松田に渡そう。あの部屋にも暖房はなかったはずだ。Tシャツの松田が必要とするかどうかはわからないが、とりあえずは喜んでもらえるだろう。

 一番の荷物である蒲団が目に入った。わずか数週間の滞在でも必要なものだったから仕方がない。蒲団を見ていると京都に来たときの決意を改めて思い出す。

 

 ――夢や愛では届かない、その向こう側。

 

 結局、何も得られなかった。届くとは思っていなかったが、何の奇跡も起こせず、妻や娘に寂しい思いをさせ、父からの信頼を失い、うだうだと蒲団を揉んでいる間に、現実に生きていた母まで失ってしまった。得られたものは夢の少年、夢の少女、そして同志――。

「同志、か」

 さきほど松田が発した言葉が甦る。

 わたしの同志はどこまで歩いて行けるだろうか。茫洋と続く焦土をどこまで歩いて行けるだろうか。わたしは現実に戻る。現実を歩み続ける。もしかしたら本当に夢と現実は陸続きなのかもしれない。もしそうだとしたらいつか再び同志と出会う事もあるだろう。出会いの場所は夢でも現実でもない、確定されない向こう側。そのときの姿はひょっとすると少年かもしれない。いや、間をとって青年だろうか。夢の少年は二十歳で死に至り、現実のわたしの命も尽きる。そのもっともっと向こうまで歩いて行くのは不可能だろうか。

 わたしは現実に生きる。同志に再び出会うために、とりあえずは現実で生き続けなければならない。今も、土俵上には行司だけが手持ち無沙汰に佇んでいる。いつかはじまる取組みを待ちながら、凝然と佇んでいるのだ。

 

 

   ◇

 

 

 荷物をまとめおえるとすぐに、彼は京都を去った。それから、もう三ヶ月以上になる。なんとか新しい仕事も決まった。以前ほどの精神的疲労はなかった。妻とは良く話し合った。もともと彼におかしなところがあったからか、予想されたよりも短期間で関係は修復された。以前のように、とまではいかないが、ぎこちなさの中にも彼は平穏を感じた。

 ある晩、晩飯に焼き魚が出た。彼がそれを食べていると歯茎に魚の骨が刺さった。鮮鋭で確かな痛みだった。京都で過ごした、あの不明瞭でとりとめのない毎日では感じる事のなかった、現実の確かな痛みだった。

 もう夢を見る事も少なくなったが、蒲団を揉む癖は変わらなかった。ときどき顎もしゃくれる。娘を挟んで彼と妻、川の字になって寝るときには娘がしゃくれた顎を楽しそうに掴んでくる。顎を掴まれた彼は夢と現実の狭間で謎めいた少女のイメージを垣間見る。その少女の顔は曖昧で、どこかで見た事があるようなのだが判然とは思い出せない。娘が執拗に顎を掴んでくるので、「顎が伸びちゃうよ」と彼は訴える。娘はそんなのイヤだ、あごのびちゃイヤだと枕の上で頭を振る。顔の横で動く栗色の髪の毛を何気なく見ながら彼は、先程の少女のイメージを娘の上に重ね合わせる。そして、どこにでもあるような和室照明から伸びる紐をパチパチと二回引っ張ると、部屋は夜になり、蒲団に潜る彼は暗闇の中にひとつの点を認める。

 

 照明の中心では豆電球だけが点っている。

 蒲団の中心では少女の瞳が閉じられる。

 

 その夜、彼が見た夢は、ぼうと灯るオレンジ色の夢だった。

 

 

 <了>