新しく整備された駅前で、そこだけわたしが子どものころから残っている、古い今にも崩れ落ちそうなビルディングの入口の扉の隙間から、大きな青大将が顔を出しちゅらちゅらと揺れていた。そのさまは外へ出るのを逡巡しているかのように見えた。わたしは青大将を見つめながら、そういえばこの建物はいったいなんなのだろうと思った。見上げるとところどころ窓ガラスが割れている。看板の類は見当たらず、今は人が入っていないことは確かだったが、それがいつからなのか、わたしが子どものころからこのようだったのか、考えてみたがなにも思い出せなかった。再開発がほとんど完了した駅前で、なぜ朽ち果てた廃屋が残っているのかも謎だった。青大将は依然ちゅらちゅらとしていたが、わたしが一歩、歩み寄る姿勢を見せると建物の中に戻っていった。
部屋が蒸してきた。先刻からわたしの上に覆い被さっている筋肉質な男のせいだ。梶原が腰を動かすたびに汗がわたしの胸やおなかに降り注ぐ。酔っ払っているときにしかわたしの部屋に来ないのでいつもやたらと体温が高い。さらにとんでもない遅漏だ。わたしは汗の雨を受け止めながら炬燵を想起する。今は夏だというのに。果てることのない炬燵。わたしをすっぽりと包み込み低いうなり声をあげる炬燵。
梶原とは古い付き合いだ。何人もの男がわたしを通り過ぎていった。金をくれる男もいたし、暴力をくれる男もいた。蝋燭をたらす男もいたし、糞便をたらす男もいた。愛をくれる男だけはとうとう現れなかった。素面のときには絶対訪ねては来ず、やたらイクのが遅い男だけが残った。梶原はいつも行為の最中にべらべらと喋る。「お、おれが八十歳だったころ」「うっ、七十歳だったころ、父親が、うう、生き返っておれの女を奪っていきやがああ、いきやがった」「いつも飛行機を見て、飛べると思って、うう気持ちいい、そしたら」「山田の野郎が」「くそっ」「コンビニの店員が釣りを間違えて」「ああう」「金がねえんだ」梶原はぱっと見、内気そうで、素面のときは無口に違いないのに酔っ払っている限りは饒舌で、要領をえないことばかり話すけれど、わたしはそんな梶原のことを下から見上げているのが好きだった。
今日も梶原は絶頂の波が来るまで延々と話し続けていた。その話にはいつもよりも脈絡があって、わたしたちは久しぶりに会話らしい会話をした。
「なあ、なんか欲しいもんてあるか?」
「なに突然、不気味なこと言って」
「いやなに参考までにな、今度友達の誕生日でさ、おれ、そいつに借金してて。うっ、プレゼントでもあげたらチャラになるかな」
「あんたがそんなことしたら相手が怖がるんじゃない?」
「おいおい、ひどいな。おれはそんなガラじゃないってことか」
梶原は汗を垂らしながら笑った。
「あんたにはプレゼントなんて似合わないわよ。わたしだったら……、わたしだったらあんたが素面で訪ねてきただけでも充分嬉しいかもね」
「おれは酒がないとダメなんだよ。うっ、ああ」
梶原は果てると、ベッドから降りて煙草に火をつけた。これもいつもの光景だ。行為が終わった後は決まって一本煙草を吸っていく。それまで饒舌だった男がこのときだけは押し黙って、なにか秘密の儀式のように真剣な顔をして煙を吐き出す。わたしはそれを見て微笑ましい気分になる。今日も煙を見ながら疲れと安心感に包まれて、迫り来る眠気に身を任した。
「京子」
梶原はベッドに背を向けて声をかけた。しかし返事が聞こえないので振り返ると、京子はニヤニヤしながら静かに寝息を立てていた。
「ったく、どっちが不気味だよ」
梶原は京子にタオルケットをかけてやった。
「明日、また来るな」
そう言って、梶原は短くなった煙草を思いっきり吸って濃い煙を吐き出した。煙は部屋の空気を白く染めた。梶原は煙草を灰皿に押し付けてから、部屋を出ようとして玄関のところで立ち止まった。
「酒を飲まずに、か」
梶原は駅前を千鳥足で歩いていた。再開発が進んでからは夜になっても人通りが絶えることがなくなった。梶原は駅前のロータリーにたむろして無邪気に騒いでいる若者を見て、世も末だ、おれが若いときはもうちょっと周りのことを考えていたぞ、自分などはまだまだまともな方などではないかと思った。――若いとき? おれだって若者ではないか。いつのまにか考えがすっかりオッサンになっちまった。梶原がそんなことを考えながら駅前を通り過ぎたとき、ぐるぐると回る視界に、廃ビルディングの方から交差点の横断歩道の方へなにかが動いていくのを捉えた。
「なんだ、ありゃあ」
梶原がおぼつかない足取りで交差点に近づくと、横断歩道はその判別がつかないほど、大量の青黒い物体に埋め尽くされていた。青黒い絨毯は信号の光を反射してヌメヌメと蠢いている。梶原はその官能的な絨毯の方へ引きつけられ一歩、また一歩と歩いていった。横断歩道のすぐ手前まで来て、梶原はようやく絨毯の正体に気づいた。
――蛇!
数えきれないほどの青大将がなにか目的を持っているかのように這い回っていた。その数はどんどん増えているように見える。
――こいつはすげえや……
梶原が目を離せないでいると、やがて横断歩道の真ん中に蛇が一匹直立した。その一匹を軸にして周りの蛇が絡まっていく。明らかになにかを形作ろうとしている。地上から突き出た二本の柱が中央で一つに収束し、すこし上にいったところで再び二股に別れる。二股の中ほどから球状のものがせり上がり、全体の姿はごく身近に溢れている、あるものの形をとり始めた。それはまさしく人間の形だった。梶原は夢を見ているような気持ちで蛇の人型を見つめ続けていた。うねる蛇たちは手となり指となり、目となり乳房となった。梶原はその姿に先程別れたはずの女を認めた。
――京子……
京子を模した蛇たちは皮膚で梶原を蠱惑し招き寄せた。梶原は横断歩道に侵入し、京子の方に手を伸ばした。
――明日こそは酒を飲まずに……京子に言うんだ……ああ、おれは酔っ払っているのか? こいつは……誰……京子? 蛇がおれを応援してくれているのか……こいつはいいや、せっかく……こいつが……おれ……明日のためにリハーサルを……
梶原は京子に近づき肩を抱いた。梶原の体温に呼応するように京子の表面の色が青から赤へ変わった。
「おれはお前のことを
次の瞬間、トラックが梶原と京子をはじき飛ばした。
目を覚ますと梶原は既に消えていた。まだ天井辺りに白い靄がかかっているところからすると、出て行って間もないらしい。タオルケットがいつの間にかかけられている。あいつ、明日も来るかな。きっと、明日も来るだろう。わたしはすこし微笑んで、心に浮かんだ言葉を天井の煙に向かって囁いた。
「愛してる」
その言葉は、案外嘘くさくなく部屋を染めた。
<了>