緑の雲

満天スモッグ

 

 

 

 

「あ、雨や」

「ほら、だから言ったやろ、雨降るってさ」

 ミキは自慢げに傘をさす。

「そんなん言うたかて、さっきまでめっちゃ晴れとったやんか」

「知らんわ、そんなもん」

 

 彼女の得意技は、天気を当てること。その的中率は天気予報よりも高い。

 どういう方法で天気を当ててるのかはわからない。何か理由があるのか、それとも適当なのか。方法なんかどうでもいいやん。知ってどうするんよ、と彼女はどうでもよさそうに言う。

 

「ほら、入りや。雨強くなってきたし」

 ミキのお気に入り、緑のパンダ模様の傘。

「またこれや。この傘意味わからんねん。なんでパンダが緑やねん、気持ち悪いわ」

「そういうふうに見える人もいるってことやん。それにさ、あんた、緑のパンダがおらんって言い切れるん?」

「おらんな、ありえん。ありえてたまるか」

「ふーん、あっそ、つまらんなあ。そんなつまらん人には傘貸せへんよ」

 ミキは僕の腕をガッとつかんで傘を奪い取ろうとする。傘が揺れて、雨粒が肩にばらっとかかった。

「はいはい、ごめんなさいねー」

「あー、うっとうしい」

 それでもミキは笑ってた。

 

 横断歩道で赤にひっかかって立ち止まる。こういうときにどこを見るかっていうと、向こう岸、車、一緒に信号を待っている人達、足元、上、のどれか。

 雨の日はなんとなく上を見てみる。自分でいつも使ってるのは透明のビニール傘なので、降りかかってくる雨粒が見えて楽しいからだ。この雨粒が全部かかったらどうなるか、とか考えてみたり。まあ濡れるだけなんやけど、それ以上にどうにかなりそうに思う。

 ミキの傘は黄色だ。でも、緑のパンダ部分は透明なので、外が透けて見える。そこからは、緑色の重たい空が見えた。

 

「緑なんて、やっぱりありえんわ」

 ぼそっと言ったけど、信号が変わって音楽が流れ出したので、ミキには聞こえてなかったようだった。彼女はただ向こう岸をじっと見ながら、さっと歩いている。

 音楽は少し間の抜けた感じで響く。雨なので、いつもよりムーディーな雰囲気にもなる。

 けれど確実に、急がないといけない気にさせられる。雨の日も、晴れの日も、容赦なく。

 立ち止まるのは、許されない。

 

「もうすぐ雨止むで」

 ミキは何ともない調子で言う。

「えー、こんな雨降ってんのに? しかもすごい曇っとるやん」

「だから知らんわ、そんなもん」

「はいはい」

 遠くの方まで空を見てみても、やっぱり晴れそうには全然見えない。

 でも十分後、天気は嘘のように晴れになった。

 

 台所からカレーの匂いがし始める。

 今日も天気予報は見事に当たった。

 けれど、ただ一度だけ、彼女の天気予報が外れたことがある。それは二人が知り合って、少したった頃だった。

 

 その頃はまだ僕は彼女の天気予報の能力を信じてはいなかった。

 確かに当たる。でも、偶然なんだと思っていた。というよりは、信じたくなかった、といった方がいいのかもしれない。自分がまったくできないことを認めるのは、案外難しい。

 その日は雲ひとつない青空で、カラッと暑い日だった。

 部屋で扇風機に当たりながら、ミキは言った。

「お昼から急に雨になるよ」

 

 でも、その日に雨が降ることはなかった。

 傘を持って出かけた彼女に、僕は言った。

「雨なんて降らんかったやん」

「まあ、そんなときもあるんやって」

 ミキの声は何ともない調子に聞こえた。

 でも、見てしまった。その時、彼女はほんの一瞬だったけど、とても寂しそうな顔をした。何かをすごく後悔しているような。

 偶然なんかじゃない。彼女は本当に天気を予報してる。だからこそ、外れるときがつらい。

 そして同時に僕はほっとした。何でもなさげにやってるようで、そうじゃない。完璧なんて、ありえない。そんな気がした。

 

 彼女が本当はどう思っているのかを確かめたことはない。

 それでも僕は、その日から彼女の天気予報の能力を信じた。だけど、信じてないふりをすることにした。少しでも気楽に予報できるようになれば、と思ったから。

 

 

「カレーできたよー」

 器いっぱいに盛られたカレー。その中に緑色のものがある。

「おい、カレーにブロッコリーなんか入れんなよ」

「あれ、そうなん? さっきじっと見てたから入れたんやけど」

「は? ブロッコリーなんか見てないやん」

「いや、そうじゃなくて。そうか、ブロッコリーに見えんかったか……」

「何やねん。まあええけどさ」

 ブロッコリーの入ったカレーは意外においしかった。

「おいしいな」

 ミキは何でもなさそうににっこり笑う。

 

 鮮やかに浮かぶ、緑色。

 

 

 朝、いつものようにバイトに行く。

 天気は晴れ、日差しが強くてあまり目が開けられない。地面ばかりを見て歩く。

 アスファルトの道。それが、だんだん土の道になってきて、気付けばすっかり周りは森になっていた。わさわさと繁る草をむりやり踏み分けて進む。高すぎる木で、光はほんの少ししか差し込んでこない。

 

 薄暗い森。不気味なくらい静かだ。

 そういえば昨日、ミキが今日は雨が降るって言ってたんやっけ。一人で出掛けるときは傘を持っていくことにしてるのに、なんで今日は忘れたんやろう。

 予報通りに雨が降ってきた。でも木のおかげで、雨はあんまりかからない。

 ただ、音だけはすごかった。叩きつけるような、ものすごい音。何だかわからないけど何かが迫ってくる感じがして、僕は走り出す。意味がわからない。だいたいどこに行こうとしているのかもわからなくなった。でも走り続ける。とりあえず逃げないと。

 ガサガサ、バシバシ、ガサガサ、バシバシ。聞こえるのは、自分が草を踏む音と、雨の音だけ。

 ガサガサ、バシバシ。ガサガサ、バシバシ、トトト。ガサガサ、バシバシ、タタタ。ガサガサ、バシバシ、ドドド。

 音が増えてる。何の音だ? しかもだんだん音が大きくなってきてる。近づいてる?

 ガサガサ、バシバシ、ドスドス、ドスドス、ドシンドシン。ドンッ。

 あまりの衝撃に、思わずつまずいて転んでしまった。冷たい土の感触、とてつもない気配。

 

 ゆっくり振り向くと、そこには大きな緑色のものがあった。ふさふさの毛。

 それは、緑色のパンダだった。金色に光る目、これ以上ないってくらいの緑。

 耐えられなくて、叫ぶ。

 

 その声で、目が覚めた。

 夢か。もうすっかり朝になっていた。

 横を見ると、ミキはいない。今日はどっちもバイト休みやからどっか出掛けようって言ってたんじゃなかったっけ。

 夢のせいか、嫌な感覚が抜けない。

 まあいいや、とりあえず出掛ける用意でもしとくか。

 適当にパンを食べて、着替えようとクローゼットを開けると、ミキの服がなくなっていた。

 なんで? 状況がよくわからない。玄関を見てみると、靴も何足かなくなっている。

 どうしたんやろう。もしや出てった?

 無意識のうちに外に飛び出す。意味がわからない。だいたいどこに行こうとしてるのかわからない。でも走る。とにかく探さないと。

 

 ポタッ。雨が降ってきた。そういえば今日は雨が降るって言ってたんやっけ。

 だんだん雨が強くなってくる。嫌な予感は強まる。

 これはもしかして夢の続きか?

 でも違う。走ってもずっとアスファルト、いつもの道、いつもの町。

 横断歩道で赤にひっかかって止まる。

 何でなんやろう。考えようとしてもわからない。いや、いつだって、何一つわかってないのかもしれない。天気も、気持ちも。

 

 

「何してんのよ、そんな急いでさ」

 後ろから傘が差し出される。

 緑のパンダの傘。

「私昨日、雨降るって言わんかったっけ?」

「そんなことよりお前、出て行ったんじゃなかったん?」

「はあ? 何言ってんの」

「だって荷物なかったからさ」

「ああ、もう夏やし夏物取りに帰ってただけやん。言わんかったっけ」

「聞いてへんわ」

「なに怒ってるん。アホちゃう。そんなわけないやん」

 ミキは何でもないかのように笑う。

「ほら、荷物一個持ってよ。重いねん」

 すっかり気が抜けたと同時に信号が青になった。照れくさくて、さっと歩く。

「あんたさあ、ほんまに何にもわかってへんな」

「うるさいわ、ありえん。わかってたまるか」

「ふーん、あっそ、つまらんなあ。まあいいや。私が天気教えたるし、大丈夫やで」

「はいはい」

 

 荷物を反対の手に持ちかえて、手をつなぐ。

 緑のパンダ越しに、空が見えた。緑の空。浮かんでいる雲は、ブロッコリー。

 

 

 <了>