『世界一周の旅に行ってきます。帰りはいつになるかわかりません。
おみやげはタクラマカン砂漠の砂にします。じゃあね。』
松に初めて会ったのは、パン工場のバイトだった。現場監督がやたらとよく怒鳴るオヤジで皆おびえていたのだけど、松だけは無表情で黙々と仕事をしていた。帰りに、松はそのオヤジからエクレアを箱いっぱいもらっていて、かわいい子は得だよな、なんて思った。松は女の私から見ても、とてもとてもかわいかった。
帰り道、さっさと帰りたくて早足で歩いていると、急に後ろから肩をこづかれた。松だった。
「お疲れさま。これ、もらってくれないかな」
そう言ってエクレアの箱を差し出した。
「あっ、お疲れ様。え、いいの? もらっても」
「うん、あたしは食べないから、どうぞ遠慮なく」
エクレアの箱を私にずいっと押しつけ、にかっと笑う。そうか、笑顔はさらにかわいいか。
「ありがとう……」
言い終わらないうちに、松は小走りで走っていった。縞々模様の長いマフラーがパタパタと風に揺れる。箱をのぞくと、ぎっしりと色々な種類のエクレアが詰まっていた。自分でひとつ食べて、次の日、大学の友達に配った。
次に会ったのは携帯電話の工場だった。料金通知の明細を、ただ封筒に入れるだけの作業で、眠気に抗うのに苦労した。松は目立つからすぐにわかった。作業が始まった時点から、ちらちらと松を見ていた。眠い様子も見せず、黙々と作業をしていた。
休憩時間にこの間のお礼を言おうと私は心の準備をしていたのだけど、話しかけてきたのは思いがけず、松の方からだった。
「この前はどうもありがとう」
「ううん、こっちこそありがとう。エクレアおいしかったよ」
「そっか、よかった。別にあたしが作ったわけじゃないけどさ」
ふふ、と松は笑う。
「大学生だよね? 学校からの派遣のバイトだし」
松は後ろでひとつにしばった髪をほどいた。はらりと長い髪がひろがる。
「うん、一回生。そこの、西口大学の……」
「あ、ちょっと」
言い終わらないうちに、松はささっと走ってカップ式の自販機に小銭を入れていた。迷わず買って、手に二つのカップを持ってそろそろと歩いてくる。
「カルピスとコーヒー牛乳、どっちがいい?」
「じゃあカルピスで。……えっと」
「あ、いいよ別に。カルピスはみんな好きだよねー、やっぱり」
「うん、そうだね」
「でもあたしはさ、絶対コーヒー牛乳買っちゃうんだ。だからコーヒー牛乳選ばれるとちょっと困った」
はは、と笑ったあと、松はごくごくとコーヒー牛乳を飲んだ。
「川崎さんはどこの大学なの?」
私が聞くと松は少し驚いた顔をしたけど、すぐに胸の名札を見て、ああ、と言った。
「松でいいよ。名前、松なんだ。松の木の松。小っさい時はやだったけど、今は気に入ってる。大学は、東芸術大学。彫刻科」
「彫刻? かっこいいね」
「そっかな。よくわかんないけど」
しばらく二人とも無言だった。松は飲み終わったカップを捨てに行った。松か、かわった名前だな。名前の由来を聞こうと思っていると、戻ってきた松が話しかけてきた。
「坂下さん……」
「あ、めぐでいいよ。みんなそう呼ぶから」
「めぐみちゃん? わかった、じゃ、めぐで」
それから松はちょっと黙って言った。
「めぐさ、次からバイト同じの選ばない?」
それから松と何回か一緒にバイトした。松はいつも黙々と作業をしていて、意外と言うのも失礼だけれど、どんな仕事も手際良くこなしていた。作業中の松は、静かで、きれいで、休憩時間の時の気さくな顔とは違っていた。休憩時間に松と話すのは楽しい。松はよく笑う。楽しいけど、でも私は、作業中の松を見ている方が良かった。その方がほっとした。
「ねえ、めぐ」
松は、コーヒー牛乳のカップを私と松の間に置いた。中にはまだコーヒーが三分の一ほど残っている。
「明日さ、何か予定ある?」
「えっと、明日って月曜日だよね。授業あるけど……別に休んでもいいのがあるから、お昼からなら大丈夫かな」
「本当? じゃあ明日、一時に東駅で待ち合わせで」
ごめんね、と松は言って、カップを取って残りを全部飲んだ。どうして謝るんだろう、と私は松を見たけど、すぐにカップを捨てに行ったので松がどういう顔をしていたのかはわからなかった。私達が座ったベンチの前には、葉が落ちきった木が何本も並んでいた。葉は一枚もなく、枝と枝の間から乾いた色の青空が見える。高い空。吐いた息が、白く昇る。もうすぐ休憩時間が終わる。空になったカップを持って、私も松の後を追った。
バイトの帰り、松と私は川沿いの道を歩いていた。砂利道なので、夜は歩きにくい。大きな石がよけられず、鳥目の私は時々つまずいて転びそうになる。松はすいすいと私の一歩先を歩いていた。
「今日の晩ご飯助かったねー」
今日のバイトはデパートの試食販売だった。私と松は冷凍食品のコーナーで餃子を売っていて、松はまた帰りに大量の餃子をもらい、私もまたそれを分けてもらった。
「えー、今日は食べたくないよ。私なんか今日ずっと餃子焼いててさ、もう油臭くてやだよ。服とかすっごい油の匂いするもん。松は売る方だったからさ」
「あたしも油の匂いついてるよ。でもさ、お客さんおいしそうに食べてたよ」
デパートの袋を振り回しながら、松は川岸ぎりぎりの所を歩いている。
「ね、明日ってどこ行くの?」
「えーっとね。……世界一周」
「えっ、明日だよ?」
「うん、どこ行きたい? イギリスとかフランスとか、エジプトとか。あ、世界一周だから全部行くのか」
そう言って松は笑う。
「砂漠とか行きたいかな」
私も笑って言う。
「タクラマカン砂漠とか?」
「なんでタクラマカンなの。サハラ砂漠とかさ、もっとあるじゃん」
「なんかいいじゃん、タクラマカン砂漠」
「そっかなぁ。松はさ、どこ行きたい?」
「あたしは……うーん。いや、なんかさ、世界一周ってよくわかんないなぁと思って」
「自分で言ったくせに。よくわかんないって、なんで?」
少しだけ私も川岸に近づく。川岸に近いところは土が多く、草も生えていて歩きやすかった。
「行くところ多すぎるもん。あたしはどこでもいいよ。行けるんだったらどこでもいい。行く場所があるっていうのはいいよ」
「ええ? よくわかんない」
まあ、ね。ぽつんと松は言った。夜の川は真っ黒で、どっち向きに流れているのか、そもそも流れているのかどうかさえわからない。ぬめぬめと口を開けた怪物みたいで、とりとめがない。前を行く松が今にも川に吸い込まれるように見えて、私は思わず松の腕をつかんだ。
「なに、どうしたの」
我に返って、私は手を離す。ごめん、と呟く私を見て、松は笑って、へーんなの、と言った。紙袋をがさがさ振り回して松はまたすたすた歩き出す。
「松、そんなにぎりぎりのとこ歩いたら危ないよ」
「大丈夫、だいじょーぶ」
うたうように言って、松は気にせず同じ速度で歩く。松が歩いたあとで、少し大きな石が崩れ落ちるたびに、ぽちゃり、ぽちゃりと音が鳴る。
へんなのは、松だよ。
昨日はなかなか寝つけなくて、朝の講義に行けなかった。あげく松との待ち合わせにも遅刻した。
「ごめん、遅れた!」
「ううん、いいよ全然。じゃ行こっか。こっち」
松は片手で大きく、角に花屋のある通りを指差してすたすた歩き出した。どこに行くか知らないので、松の後ろを黙ってついていく。そういえば松はほとんど並んで歩こうとしない。
この辺りに来たのは初めてだ。通りにはさっきから、おいしそうな定食屋さんが続けざまに出てくる。うちの学校の近くにもこれぐらいあったらいいのに。
「あ、ここ。うちの大学」
横断歩道のすぐ向こうにレンガ造りのおしゃれな建物がある。松はそれだけ言って、青になる直前にすたすた歩き出した。芸術大学というだけあって、大学の中は個性的な人が多いように感じる。微妙に落ち着かなくてそわそわする。オープンテラスのカフェについて、松はきょろきょろあたりを見わたしている。しばらくして、あ、と小さい声で言って小走りで走り出した。知り合いを見つけたらしく、男の子と女の子二人組のテーブルに近づく。二人に話しかけていた松が、私の方を振り返って手招きする。私もテーブルの方に行った。男の子の方は、背が高く眼鏡をかけていて、けっこうかっこいい。女の子は、松とは違うタイプのかわいい人。いや、かわいいというより綺麗という方が似合う。すらりとした美人。
「ようちゃん、この子がめぐ。坂下めぐみちゃん」
松が私の腕をつかんで引き寄せた。
「坂下、めぐみです」
よくわからないけど、松にしたがって自己紹介をする。ようちゃんという美人さんは私に向かってにっこりとうまく笑った。
「佐藤葉子です。松からいつも話を聞いてます」
話し声も松とは違って落ち着いた感じ。
「私達これから遊びに行くから。じゃあね」
松はつかんだままの私の腕を引っ張って、すたすた歩き出した。
「おいちょっと、俺のことも紹介しろよ」
男の人が笑って言ったけど、松はそのまま歩いた。ようちゃんは綺麗に笑ってひらひら手を振っている。私もひら、と手を振り返す。二人から見えなくなるところまで行くと、松はぱっと手を離した。
「ありがと、ごめん」
松は笑っているけど泣きそうな顔をした。
「ううん、いいけど。友達?」
「うん、友達。大事な」
「大事なんだ」
私はばかみたいに繰り返した。うん、すごく。そう答えて松はそばにあったベンチにぺたりと座った。私も横に座る。しばらくしても松は黙ったまま。ちらりと横顔を見ると、作業中と同じ顔をしていた。遠くで見ているとただ綺麗だったけど、近くで見ると、綺麗というか不安な感じがする。昨日の川を思い出して、ざわざわした気分になる。
「ね、これからすることないんでしょ。私の家来ない?」
急な思いつきに、自分でもびっくりした。
「広いねぇ、あたしもこんなとこ住みたかったな」
松はぱたぱたと部屋の端と端を往復している。いいでしょー、と言いながら私は紅茶を出す。
「さっきの男の人、よう子さんの恋人?」
松は両手でカップを持ってそろそろと紅茶を飲んでいる。
「うん、そう」
「そっかぁ、似合ってるよね」
松はほんのちょっとだけ笑って紅茶をまた飲みだした。それ以上聞く気がしなくて私も黙って紅茶を飲む。コトン、と紅茶のカップを置いて松は伸びをした。
「あー、なんか疲れたね」
「ベッド、使ってい……」
言い終わらないうちに松はするりとベッドに入った。
「おやすみー」
はいはい、おやすみ。まったくなぁ。紅茶のカップを片付けて、この間買った小説をソファーで読む。あまり内容が頭に入ってこない。ようちゃんの、綺麗な笑顔が頭をよぎったりする。それでも読んでいるうちにいつの間にか寝てしまったらしく、気付いたときにはもう外が薄暗くなっていた。なんだか寒いと思ったら窓が開いていて、見るとベランダに松はいた。
「松、何してんの? 寒いでしょ」
「あそこに止まってるカラス見てた」
振り返って松はにかっと笑う。
「餃子食べない?」
うん、いいね。私もにかっと笑う。
デパートでもらった餃子はいろんな種類があって、どれも思ったよりおいしかった。松が考えて作った、梅とマヨネーズを混ぜたソースがおいしくて、そればっかりつけて松と私はひたすら餃子を食べた。
「ねえ、松ってさ、いつも文句言わないよね。今日私が遅刻したときもさ、三十分も遅れたのに何も言わなかったし。バイトでむかつくおっさんとかいてもさ、何も言わないじゃん。ほら、こないだの部品工場のときとかさぁ、あの現場監督はひどかったよ」
ああ、あれね。と言って松は梅干しから種を取り出し、マヨネーズを出してまた新しくソースを作る。
「あたしもむかついてるよ。でもさ、すぐおさまる。心のさ、ゴミ箱に入れてるから」
「ゴミ箱?」
餃子が焦げだしたので少し火をゆるめる。
「心にはさ、ゴミ箱があって、嫌なことは全部捨てるんだよ。びりびりに破って捨てる。そしたらもうだいじょぶ」
「ええー、そんなさ、簡単にいかないよ」
「そんなことないよ、慣れれば」
松は梅とマヨネーズをスプーンでぐるぐる混ぜる。くるくるとキレイなマーブル模様になっていく。
「あたしは全部ゴミ箱に捨ててるけど。嫌なことも、そうじゃないことも」
松はぐるぐるとマヨネーズを混ぜ続ける。マーブル模様が濁って、ピンク色になってきた。もういいじゃん、と私は松の手を止めて、餃子を新しいソースにつけた。
それからしばらくまた松と一緒に何回かバイトをした。でも一緒に遊ぶことはなかった。私も心の中にゴミ箱を作ろうとしてみたけど、うまくいかなかった。やっぱりむかつくことはむかつく。楽しいことはずっと覚えていたい。時が経てばどっちも忘れるんだろうけど、それでいいんだろう。でも、松みたいにできたらいいのかもしれないな。黙々と作業をこなしている松を見ると、そんな風にも思った。
暖かくなりはじめたころ、携帯に松からメールが届いた。メールが来たのはそれが初めてだった。
松が世界一周になんて行くわけない。直感的に感じる。もう松には会えない。どうにかしてあげたかった、というのは違う。松に会えない事に、私は少しほっとしてしまったから。松が嫌いというわけではない。ただ、つらかった。松の笑顔をみるのがつらかった。あんなにかわいい顔で笑うのに。
この先、心の中にゴミ箱が作れたら、松のことを捨てるかな。捨てられないだろうな。松もきっと捨てられなかったんじゃないのかな。忘れることもできなくて、ずっとそのまま持ち続けてたのかもしれない。
松、私は、松と会わない方がよかったよ。
松のことが、忘れられない。
<了>