灰色がかった紺色の空に、きっかり半分の月が浮かんでいる。月の光は薄く人や木や電柱にかかり、全てのものの輪郭を曖昧にする。月をぼんやりと見上げながら、障害物に気をつけつつ歩く。夜は私にとって一日の始まりだ。家路を急ぐ人々を尻目に、仕事場へ向かう。
私の勤め先はこの町で一番の大工場だ。工場は町の西側の端っこ、海に面したところにある。工場の敷地内に入ると、どこにいようともほのかな小麦の香りが鼻をくすぐる。この工場では、ここら一帯の食卓を支え続けている、パンが、毎日想像できぬほど生産されている。あんパン、ジャムパン、ウインナーパン、まさにその種類は多種多様で、社員といえども全種類を覚えるのは難しいとされている。でも私は当然、全二百八種類を覚えている。社員とはそういうものだと思う。
「おはよう、みづきちゃん」
「おはようございます、田中さん」
田中さんは先日、このラインに配属されたばかりで、まだこちらに慣れていないらしい。
「みづきちゃん、見て、ほらここ」
そう言って田中さんは人差し指をつきだして見せる。
「たこができてますね。これって」
「うん、フランボワーズソースをかける入れ物がさ、まだ手になじまなくて」
田中さんはするりとたこをなでる。
「もうちょっとさ、うちの工場、機械化してもいいと思うんだよな」
うちの工場は機械化を嫌う。手で作ることに並々ならぬこだわりを見せているため、人手は膨大にいるのだが、その分パンは高値に設定されている。それでもうちのパンがよく売れるのは、やっぱり人の温度で手間をかけて作っているからだと思う。それぞれのラインごとに日々研究も怠らない。
早番の人と交代し、いつもの場所につく。私の持ち場は最上級いちごの決定ラインだ。へたが取られ、洗われ、流れてきたいちごの中から最上級のいちごを選ぶのだ。選び方について、うまく説明はできない。なんとなく、としか言いようがないが、しいて言えば存在感だろうか。最上級のいちごは、他のいちごよりもはっきり、すっきりと存在している。よく見えるのだ。誰でもこのラインにつけるというわけではない。本当は誰しもが出来るはずなのだが、感覚をつかめるまでに個人差があるし、向き不向きもある。幸い私は向いていた、それだけのことだ。
ポーン、ポーンと作業開始のチャイムが鳴る。一度止まっていたベルトコンベアーが動き出す。大量に流れてくるいちごの中から最上級だけをつまみ取る。一粒、また一粒。毎日、同じ作業の繰り返しなわけだが、飽きたり、眠くなったりはしない。集中しているせいだろう、時間がたつのはあっという間だ。他のみんなも一様に、時間がたつのが早いと言う。それぞれがやっぱり集中しているのだ。これもうちのパンがおいしい理由のひとつかもしれない。
「おつかれさまでーす」
暗闇がほんの少し薄まりはじめる頃、一日が終わる。何重にも積まれたケースには、ひしひしと、出来上がったばかりのパンが並べられている。パンのてっぺんには最上級のいちごが乗っかっている。工場の照明が当たり、より存在感があるように見えるが、全部が最上級のいちごなのでみんな普通に見える。
その日出来上がったパンは、すぐにトラックに載せられ出荷される。トラックとともに、私たちもまた町へと帰っていく。
「寒くなってきたねぇ、今年もあと二ヶ月か。早いもんだなぁ」
田中さんは人差し指のたこに軟膏を塗りつつ、するすると歩く。田中さんは気配が薄い人だ。近づいてきても、あまり煩わしくない。そのためか、気付いたら私は田中さんと手をつないでいた。
「今度の休みさ、どっか行かない? ほら、遊園地とかさ」
田中さんの手は意外と大きい。そして冷たい。
「私、あんまり休み取ってませんから。休日は休まないと」
「みづきちゃんさ、そんなに働いてどうすんの? 仕事、仕事ってさ。もったいないよ、もっと遊ばないと」
そうですね。私は適当な返事をする。田中さんの人差し指の軟膏が私の手につく。する、と私は手を抜き、田中さんから離れた。ふっとパンの香りがする。田中さんのものか、はたまた私のか。
「おやすみなさい」
私が言うと、田中さんはだめかぁ、と笑って、おやすみーと言いながら背を向けてするする歩き出した。一瞬呼び止めたくなったけど、やっぱりやめて、手についた軟膏を服の裾でぬぐう。休みの日に遊ぶ人はいくらでもいる。
明るくなる前に家に帰る。完全に明るくなってはだめだ。さっとシャワーを浴び、歯を磨く。いつも歯を磨くときの目安として使っている、三分計の砂時計を傾ける。その時、いつもの動作のはずなのに手が滑って砂時計が床に落ちた。中の砂がさらさらと床にこぼれる。砂は変にやわらかな手触りだった。砂を片付けたあとも、まだしつこく手に感触が残っていた。気分がすっきりしない。でも明るくなるまでに寝ないと。急いで布団に入って、無理やり眠った。
「おはよう、みづきちゃん」
「おはようございます、田中さん」
なんだか今日は田中さんの気配が濃い。気のせいだろうか。
「みづきちゃん、ちょっと顔色悪いよ、大丈夫? だからさ、もっと休み取った方がいいんだよ。みんな言ってるよ、みづきちゃんは若いのに仕事の鬼だ、って」
「いえ、大丈夫です」
「そう? 無理しないでよ」
あきれたように田中さんは笑う。人差し指にはたこ。軟膏を塗っても治らない。何だ? 何か苛々する。田中さんを追い越し、早足で歩いて自分の持ち場へつく。いちご、いちごを見れば落ち着くはずだ。
ポーン、ポーン。チャイムが鳴り、ベルトコンベアーが動き出す。しばらくしていちごが流れてくる。どんどんいちごが流れてくる。どんどん、どんどん。いつまでたっても最上級のいちごが見当たらない。そんなはずはない。こんなに流れているのに、見当たらないわけない。……おかしい。どんどんいちごは流れていく。止まることはない。どうしよう、わからない。見つけられない。なぜかふと、前に別れた恋人の顔が頭をよぎった。別れ際、最後に見た顔だ。今までとは別人の顔。もう私にはこの人を笑わせることはできないんだ、と思った。笑った顔が大好きだった。とても、寂しかった。いちごはどんどん流れていく。気持ち悪い。もう嫌だ。ゆらゆらと目の前が揺れ、暗くなっていく。田中さんが、こっちに走ってくるのがうっすらと見えた。
あれから私の持ち場は、同じラインのいちごを洗う場になった。感覚はまだ戻らない。最上級のいちごは、今は私の前任者が選んでいる。キウイパンのラインにいたのだが、私がだめになったので呼び戻された。
どうしてこうなったのか、原因はわからない。ただ、あの日壊れた砂時計の砂、あのやわらかな砂が自分のまわりにまとわりついているような感じがするのだ。砂に埋もれているような。全てが曖昧に、色もなくさらさらとしている。行ったことはないけど、砂漠ってこんな感じじゃないだろうか。
感覚を失っても、毎日は続いていく。止められない流れ。脱落してもそれはそれ。いちごを洗うのも、これはこれで楽しい。手は冷たいけれど。
「おつかれー、みづきちゃん」
帰り道、田中さんが後ろから走ってくる。あの日から、田中さんの気配だけはだんだん濃くなって、今は遠くからでも何となく田中さんがわかる。田中さんの手を取る。大きくて、温かい手。
「まだ感覚戻らない?」
「はい」
「そっか、でも焦らなくてもさ、戻るかもしんないし」
「そうですね」
軟膏が手につく。
「どう? 今度、遊園地」
「考えときます」
する、と手を抜き、田中さんから離れる。ふっとパンの香りが両方からした。
「おやすみなさい」
田中さんはにかっと笑って、おやすみーと言いながらすたすた歩き出す。冷たい風が吹いて、軟膏のついた部分がちょっとひやりとする。そのままで、私も家に帰る。休日に遊ぶ人はいくらでもいる。でも、近いうちに遊園地に行こうと思っている。
<了>