機械

原想一朗

 

 

 

 

 文吾はふと目を覚ますと、そこは自分の部屋で、ベッドの上に横たわっていた。その部屋は屋根裏を改装したもので、ベッドから上を眺めると、天井には雨漏りの跡が入道雲のような柄を残していた。文吾は一瞬目を見開いて小さな声でつぶやくように言った。

「ここは実家だ」

 文吾はなぜ自分が実家の部屋で横たわっているのかわからなかった。唯一はっきりしていることは、自分が実家にいるということだけで、それ以外の事は何もかも思い出すことができない。

 周りは閑散としていた。薄暗い部屋から微かに差し込む光は、いかにも後付けされたことがわかるような小窓から入り込む光であった。その光は、文吾が長年使っていた木机と、部屋がつかわれていなかった証となりうる埃とを照らしていた。文吾はその光を空ろな目で眺めながら、中学生の時に懸命に机に向かっていた自分を想起していた。

 そうしているうちに、一階から女性の声が聞こえた。

「文吾、起きたかい?」

 母親の声だった。文吾はなぜか母の声を懐かしく思った。「そういえば最近電話で話したよな……」と思いながらも、やはり母親の声を不思議に感じた。母親の声と自分との間に何か空白を感じるのである。

 そうこう考えているうちに、下から母親が階段を登ってくる音が聞こえた。文吾は何が起こっているのかがわからないという恐怖と、中学時代に毎朝母親に叩き起こされた懐かしさとで複雑な気持ちになった。

「やっと起きたんだ、心配したんだよ」と階段を駆け上ってきた母親は涙ぐんだ目でそう言った。

「ごめん母さん。今、何が起こっているのか全くわからないんだ」と文吾は母親の表情を見て驚き、急いだ口調で言った。

「文吾、もしかしてあんた記憶がないの!?」と母親は悲愴な顔をしてそう言い、文吾のもとへ近づき、文吾の手を握りしめた。

「文吾、あんた何がそんなに苦しかったんだい? 憶えてないのかい? あんたはね、神社の近くにある林の中で倒れているところを発見されて、病院に運ばれたんだよ。診察の結果は頭を強く打撲した程度で、脳内には特に異常が見つからなかったから、とりあえずは自宅で休ませて欲しいといわれて、母さん、眠ったままのあんたをここまで連れてきたんだよ。」

 これを聞いた文吾は事態の不可思議なることに嫌気が差し、「母さんごめん」と言って、重い体を起こし、部屋を飛び出した。ぎしぎしときしむ階段を降り、玄関にあった父親のものと思われる長靴をはき、外へと駆け出した。

 文吾は中学生のときに、毎日犬と一緒に歩いていた道を進んでいた。文吾は今自分の居る世界が夢幻ではないということを確かめるように、一歩一歩丁寧に地を踏んだ。そして、白樺に囲まれた農道を歩くにつれ、文吾の心は次第に落ち着きを取り戻した。文吾は確かに今自分のいる世界が現実であることを認めると、自分の今いる境遇というのを確かめたくなったのだった。

「自分は今二十三歳。札幌市近郊の私立大学に通っている。学部は文学部、哲学科。三年生。自分の故郷は、今歩いている所で、札幌の中心部からは車で二時間程かかる田舎。自分の名前は柏木文吾。中学・高校とラグビー部に所属していた。部活漬けの毎日だった。スポーツ推薦で大学に入学した。真二という親友がいる。大学生活……」 文吾はありとあらゆる自分に関する出来事を頭に廻らした。

 

 

 大学に入学して、三年目に突入した文吾は、自分の部屋に籠る生活をしていた。文吾は大学のすぐ近くのアパートを借りて、一人暮らしをしていた。部屋は日当たりが悪く、空気の循環性も低い。これでもかという程に、部屋自体が文吾を憂鬱にさせていた。

 文吾は大学に入学して以来、友人という友人ができていなかった。折角、中学・高校とやってきたラグビーの経験を生かし、スポーツ推薦で入学したものの、入部してから三週間で辞めてしまった。原因は酒である。

 文吾の外見は、「北極熊」という言葉が最も想像しやすい言葉であるといえよう。身長は一八二センチメートルと体格は大柄で、当然のように筋肉質である。頭は坊主頭で、凛々しい眉毛とは対称的に下に垂れ下がった頼りない目が特徴である。しかしながら、その体格を裏切るように肌が白い。そして、酒をほとんど受け付けない体質であった。部活に入学した時は、年上の先輩から「飲めない白熊はただの白熊」などとからかわれ、酒を強要された。こうして、入部二週間目の新入生歓迎会で、文吾は急性アルコール中毒になり、病院に運ばれ、退院し、退部した。

 まさに、文吾のこれまでの大学生活は「退」という字が適当な意味を示すのであった。部活から退き、酒から退き、大学から退いていた。

 文吾は部屋で煙草をふかしながら、音楽を聴いていた。かけている曲は、文吾が好きなショパンの「雨だれ」だった。文吾は胡坐をかき、ピアノのリズムに合わせながら、巨大な上半身をメトロノームそのもののように左右に揺さぶっていた。その時、「キンコーン」とインターホンの音が鳴った。文吾はせっかくショパンの世界に浸透していた自分を強制的に現実世界へと呼び戻すインターホンの音に対して、「ちっ」と舌打ちをして、九〇キロはある重たい体を動かし、ドアののぞき穴を覗いた。

 ドアの外に立っていたのは、真二だった。

「ごめんください」と真二は微笑みを浮かべて言った。

「何だよこんな昼間から。真二、授業はないのか?」と久しく人間と接していなかった文吾は、自然と軽率な口調になった。

「それがだな、文吾。近くの三野神社で七夕祭りがあるんだ。出店がたくさん並んでいて、賑やかだぞ。どうだい、一緒に行かないか?」

 真二は文吾が唯一人間らしい人間と認めていた一人であった。大学二年生の時に、文吾がキャンパス内の喫煙所で一人煙草を吸いながら本を読んでいた時に声をかけたのが真二であった。真二の生まれは青森県の八戸で、高校から札幌の学校へと転校し、そのまま大学へと進学し、文吾と出会った。真二は文吾と同様に、スポーツ推薦で入学した。小学生の頃からずっと甲子園を夢見ていた真二は、自分の環境を青森から北海道でと移したのであった。そして、文吾とのもう一つの共通点は、大学で野球部に入学して、すぐに辞めた点である。その原因は、文吾が酒に弱かったのに対し、真二は女に弱かった。女に弱いというのは、女が苦手であるという事ではない。真二は女に溺れてしまったのである。真二の女とは真二の一つ年上の女で、名前を景子といった。景子は看護師の仕事をしているため、真二は景子が仕事に出ている間はいつも文吾の部屋を訪れていた。そして、景子が仕事から帰る時間になると、態度を一変させて景子の家へと向かうのである。

 真二はこのような生活を二年間続けていた。結局、景子と出会ってから野球の練習を怠けるようになり、退部するに至ったのである。

 しかし、文吾が認める真二の良さというものがあった。それは、物事を論理的に思考する能力があることと、不思議に思うことを率直に述べることとである。それはまるで、学校の教師が生徒の耳にたこができる程言うような事柄ではあったが、文吾にとって真二がそのような性格をしている事が心地良かった。

 文吾は、たまに外出するのも良いと思い、真二の提案に乗ることにした。文吾は散らかった部屋の中心に山積みになっていた上着から、その日の気温に適すると判断したもの一枚選んで羽織り、真二と共に外へ出た。

 外は雲一つない快晴であった。

「ああ、気持ち良い」と文吾は溜息を漏らすように言った。

「たまには外も良いだろう。お前はどう見ても外の方が似合ってるよ」

「そうか?」

 文吾は笑みを浮かべた。しかし、内心、文吾は絶好の天気のせいで、青空の下で歯を噛み締めながら、必死に土の上を走りこんでいある風景を思い浮かべていた。これすなわちラグビーの練習風景である。

 文吾は一瞬ラグビーの事を考えていたことを悔やみ、意識的に考えることを止めようとした。

 文吾のアパートから歩いて一五分経つと、二人は金成神社に到着した。

「この神社に来るのは久しぶりだなぁ」と真二はつぶやくように言った。

 神社の入り口には、茶色の大きな鳥居があった。二人はわくわくしながらその鳥居を越した。鳥居をくぐると、その中はたくさんの人々で賑わっていた。御くじを購入する者・鐘を鳴らして祈願する者・子供の舞踊会を楽しみに席を取る者などがいた。ある少女は、出店で買った綿飴を片手に持ちながら、「世界が平和でありますように!」と神前に向かって大声で叫んだ。そう叫んだ少女は、顔を赤めかしくし、母親の懐に向かって駆け足で飛び込んでいった。

 文吾と真二はその光景を微笑ましく眺めた。

「よし、俺も祈願しよう」と真二は言い、列に並んで順番を待った。

 それを見た文吾も、真二と同様に列に加わった。

「何を祈願するんだ真二、お前もさっきの少女と同じく世界平和か?」

「何を祈願するって?それをお前に教えてどうするんだよ。そんなに知りたいんなら教えてやっても良いがな。大した願い事でもないよ」

「素直に教えろよ、真二」と文吾は念を押した。

「大きく二つある。一つは景子との関係が上手くいくこと。もう一つは、良い仕事に就職できることだ」

 文吾は驚いた。一つ目の願いはある程度予想していた事ではあったが、二つ目の「良い仕事に就職する」という願いは予想だにしなかった。文吾の心の中には、なぜか真二に就職して欲しくないという気持ちがあった。それは同時に、自分が就職をしたくないという気持ちがあることを表明していた。文吾の身体は一瞬、一種の焦燥感に満ち溢れた。

「そういうお前は何を祈るんだ?」と真二は問い返した。

「何だろうね、あまり思いつかないよ」と文吾は答えた。

「願い事をして、その願いが成就するとでも思うか?世界の平和を願って世界が平和になる訳でもないし、体の健康を願って健康になる訳でもないだろう。神様が何でもしてくれたら、この世の中に何の問題もなくなるだろう」と文吾は真面目な顔をして言った。

「そうかもしれない。けど、一人の人間が一つの願いをもって神社に集まることは素晴らしいことだと思わないか?」

 文吾にはその「素晴らしさ」がわからなかった。文吾は苛立ち始めていた。その苛立ちは、真二が就職したいと願っている事に対しての苛立ちと、数え切れない程の人間が神様に対して願い事をしていることに対する苛立ちとが混ざり合った感情であった。

 その時である。文吾は、一瞬周囲の人々が「機械」に見えた。鐘を鳴らして願い事をする人々、出店で食べ物を売る人とそれを買う人々、全てが機械的であった。文吾の頭の中に、一瞬、普段の自分が所属する世界とは全く質を異にする世界が開かれた。普段身に感じている風の音や太陽の光などがすでに感じなくなっていた。ただ、人々の声と人々の動きだけが、文吾の目の前で展開していた。しかし、あくまでも人々の声は「機械音」であり、人々の動きは「機械的」であった。時間の動きは止まり、文吾は一つの異世界を傍観していた。

「え?」

 自分の声は確かに人間の声として認めることができた。その声を発した時の文吾の表情は、あたかも幼少期の子供が、親から新しい言葉を与えられた時に、唖然とする表情に似ていた。

 文吾は自分が人間であり、周りが機械であるというこの相対的な世界に恐怖心を抱いていた。全身が金縛りのように硬直し、顔を強張らせながら、どうにかして脱け出したいと思った。

「し、真二……」

 文吾が唯一頼ることができたのは、背中を文吾の方に向け、列に並んで祈願するのを待つ真二であった。

「真二……ちょっといいか?」

 文吾は怖かった。もしも、自分の方向に振り向いた真二までもが「機械」であったらどうすれば良いのかという不安が、文吾の頭を横切った。文吾は真二の背中を凝視した。

 そして、真二は振り向いた。

「どうした文吾、顔色が真っ青だぞ」

 真二の顔を見た文吾の表情は次第に和らぎ、安堵へと変化した。手には粘り気のある汗をかいていた。文吾は自分の手を見つめながら、確かに自分の中に異変が起きていたことを認めた。そして、「はっ」と気付いたように周りを見渡すと、さっきまで機械に見えた人々が、普段見ているような人間味を帯びた人々に戻っていた。人々の声も機械音ではなく、人間の音として感じられた。文吾は「ふっ」と溜息を漏らした。

「何だよ急に落ち着かないと思ったら、一人で解決したような顔をして。大丈夫か?」と真二は心配そうな表情をして文吾の顔を覗き込んだ。

「おお、ちょっと目眩がしてな、大丈夫だよ」と文吾は何事も無かったように受け答えた。しかし、文吾はさっき起こった現象が再び起こるのではないかという不安が募ってきた。文吾は、とりあえず金成神社から場所を移したいと考えた。

「真二、悪いがトイレに行ってくる」

「おう、わかった」と真二は心配そうな眼差しを残して言った。

 文吾は真二の応答を確認するや否や、並んでいた列を離れ、境内全体を見回して、ひと気のない場所を探した。しかし、そのような場所は境内には見あたらないので、文吾は一度鳥居の外に出ることにした。文吾は足の回転を速め、巨体に似合わない小走りによって群集を掻き分けた。

 文吾は金成神社の鳥居を出ると、左方向に森があり、その森に小道があるのを見つけた。文吾は息を切らしながら、相変わらず小走りでその森へと駆け込んだ。その小道にはひと気が少なく、唯一見える人間といえば、文吾の五〇メートル程先に、ゴールデン・リトリバーと思われる犬を散歩させている若年夫婦のみであった。

 ひと気の少なさを確認した文吾は、次第に走る速さを弱め、通常のゆったりとした歩き方に戻った。文吾は久しぶりに走ったために、かなりの体力を消耗していたので、両膝に手をついて呼吸が安定するのを待った。文吾は息を切らしながら、「自分はどうしてこんな目に遭わなくてはならないのだろう」と自問した。

 文吾は呼吸が安定すると、下にうつ向いていた顔をあげた。すると、目の前には数え切れない程の杉が立ち並んでいた。その木々の間を蛇のように曲がりくねった小道が続いていた。また、杉の深緑色をした葉と葉との間から、あたかも文吾の様子を伺うように差し込む光は美しかった。文吾は、「境内よりも余程神聖な雰囲気があるじゃないか」と思った。

 そのまま小道に従って歩いていくと、道は二手に分かれていた。一つの道は右に大きく角度を変える道で、この道は先程犬を散歩させていた夫婦が前方を歩いていた。そして、もう一つの道は、真っ直ぐに進む道ではあるが、少し進むと道は途切れていて行き止まりになっていた。しかし、その行き止まり地点をよく見ると、他の木とは別格の杉が威風堂々とそびえ立っていた。その杉は、屋久杉や奈良の吉野杉に劣らない迫力を持っていた。文吾はその杉に向かって、興味深々な表情を浮かべながら足を進めた。杉の真前に立った文吾は、木を下から撫でるように見上げた。

「わぁ」と文吾は外見から想像できないような幼稚な声をあげた。

 巨大な杉の木のふもとには、プラスチック製の立て看板があった。

「推定樹齢七五〇歳 開拓者三枝仙太郎の霊魂ここに眠る」とその看板には記されていた。どうやらこの杉は、金成神社周辺一帯を開拓した歴史的な人物の霊魂が祀ってある、いわゆる神木であるようだ。

 文吾は魅了されていた。頑丈そうな根元から、天に向かってうねるように伸びる幹、そして一つ一つの枝には、葉と枝とが二つで一つといわんばかりに、確実に結びついている。このような様相を見た文吾は、まるで自分の理想とする人間像を表現しているものとして、その神木を捉えていた。文吾は宮沢賢治の「ソンナモノニワタシハナリタイ」という言葉を頭に浮かべながら、軽く微笑んだ。

 文吾は腕を組みながら十分程じっと神木を眺めていた。神木を眺めている途中で、次第に文吾の瞼が重くなってきた。眠気が襲ってきたのである。その眠気を食い止めるように、文吾は真二を神社の境内に待たせていることを思い出した。文吾は慌てて神社に戻ろうとしたが、神木に何もせずに背を向けるのも何か申し訳がない気がして、軽くお辞儀をする程度に一礼した。文吾は、「また来よう」と心の片隅で思った。

 文吾は神社に戻ろうと、再度小走りになった。今回の走りに周囲の世界に対する恐怖心は無かった。文吾にとって、森の中に偶然駆け込んだ事が精神の回復につながっていた。

 森を出て、再び鳥居の方向へ走った文吾は、鳥居の前に、真二が座り込んで退屈そうにしているのを見つけた。「真二!」と文吾が大きな声で呼ぶと、真二は驚いた顔をして立ち上がった。

「何してたんだよ文吾、トイレならすぐここにあるのに、どこまで行ってたんだ?さっきは顔色も悪かったし、心配したんだからな」

「すまない真二、ちょっと気分が悪くなって、しばらく散歩していたんだ。おかげさまでこの通りだ。顔色も戻っただろ?」

「そうだな。顔色はさっきよりも大分良くなったみたいだ。さて、この後どうしようか?」

「大分疲れたから、俺の部屋でコーヒーでも飲まないか?」

「うん、そうしよう」

 二人は一致団結し、文吾のアパートに戻ることにした。文吾は、周囲が「機械」に見えたことが信じられないくらいに正常であった。「さっきの現象は一体何だったのだろう」と心の中で首を傾げながらも、確かな事実であったことを認めて足を進めた。

 真二は依然として文吾に起こった事を深く問い詰めようとはせず、淡々とした表情をしていた。

 

 

 二人は文吾の部屋へと戻った。文吾は部屋に着くとすぐにコーヒーを入れる準備をした。文吾は、近くの店で購入したブレンド豆をひいたものをコーヒーメイカーに設置しスイッチを押した。真二は、文吾の部屋の片隅にあるCDラックを眺めながら、かける音楽を選んでいた。

「コーヒーにはジャズ」と真二はふざけて格式張った声を出して、チャーリー・パーカーのCDを選んで、コンポに挿入した。文吾の部屋にアルトサックスの鮮やかな音が鳴り響いた。

「できたぞ」と文吾はできあがったコーヒーを真二に手渡した。

 真二は手に取ったコーヒーを一口啜って、「うまい!」と言った。さらに一口啜ると、次は真剣な顔をして言った。

「文吾、神社の祈祷所で列に並んでいる時に、何を信じているのかというような話をしたよね」

「ああ、したね。それがどうかしたのかい?」

「あの時、俺は何も考えずに目に見えない神様に向かって願い事をしていたんだが、今考えると何か阿呆らしくなってな」

「そう思うだろう?俺もそれがよくわからないんだ。じゃあ真二は何か信じられるものはあるか?」

「そうだなぁ、とりあえず目に見えないものは信じられないから、信じられるとしたら目に見えるものかなぁ」

「そうすると、その目に見えるもので信じられるものってあるか?」

「何だろう……親かな」

「そうか……親ねぇ……」

 文吾は不満げな表情をして言った。真二に対して、更に聞きたいことがあるはずであるのに聞けない自分がいた。恐らく、そこにはこれ以上真二に聞いても解決しないどうという一つの諦めがあった。そして、文吾自信が親を信じているかといったら、決してそうではなかった。文吾は、「もしかすると信じられるものなどこの世にはないのでは」という不安が生じてきた。ましてや、ここにいる真二の事さえ自分は信じているのだろうかと文吾は考えた。

 文吾の疑問は、その数を増すばかりであった。

「……」

 二人は沈黙に陥ってしまった。その沈黙は、お互いが完全に信じ合っている関係にないという二人の同等な思考による沈黙であった。

「ごちそうさま」

 真二は雰囲気のまずくなったことを察知したのか、コーヒーカップを床に置いた。

「そろそろ景子が帰ってくる時間だから、俺も帰ることにするよ」と真二は立ち上がりながら言った。

「おう、またな」

 文吾は自分で「またな」と言ったことを少し後悔した。

「今日は色々迷惑をかけてすまなかった、真二」

「ああ、体調には気をつけろよ」

 真二は文吾の目に直接視線を合わさず、少し下に向けながらそう言い、外に出て行った。

 文吾は、強烈な虚無感にまみれ、一人部屋に座り込んだ。

 部屋に一人になった文吾は、疲労困憊していた。時計は夜の七時を回っていた。今日何も口にしていなかった文吾は、部屋の隅にあったカップ麺を食べようと、やかんで湯を沸かしはじめた。

 沸きおわった湯を麺に注ぎ込み、三分経過するのを胡座をかいて待っていた。文吾は今日あった出来事を頭の中で振り返っていた。

「金成神社・祈祷・小さい子供・機械・手汗・森・三枝仙太郎・神木・コーヒー・真二……」と一日の中で文吾の脳を刺激した単語が次々と浮かんできた。文吾はカップ麺を食べ終わると、一気に眠気が襲ってきた。そして、そのまま倒れ込むように布団の上に大の字になって横たわった。

「ぐぉー、ぐぉー」

 ものの数秒の内に、文吾はセイウチの鳴き声のようないびきをかきはじめた。

 

 

 南窓からは眩しい程の光が差し込んでいた。「ちゅっ、ちゅ」と雀のさえずりが微かに聞こえる。長方形の窓のふもとには、文吾の鼻の穴から放たれる重低音に興味を示すように、一匹の天道虫が文吾の方に向かって歩いていた。

「んぐ」

 文吾は閉じていた瞼を少しずつ開けると、光が見えることに驚いた。昨日寝たのが夜の八時頃で、今現在は朝の七時であるから、計十一時間も寝ていたことになる。文吾はこんなにも早い時間帯に起床するのは久しぶりであったので、珍しくも朝から気分が良かった。しかし、腹が減っていた。昨日のカップ麺だけでは、文吾の巨大な胃袋を満たさなかったようだ。また文吾は、部屋に自分の体臭が充満していることに気づいた。

「そういえば、昨日たくさん汗をかいたんだったな」と自分の体臭に恥じらいを感じつつも、そう呟き、シャワーを浴びることにした。

 文吾はシャワーを浴びようと、部屋の真ん中で服を脱ごうとしたその時、「ぴろぴろん」と文吾の携帯電話の音が鳴った。電話は母親からであった。文吾は、一刻も早く自分の体を洗いたいという気持ちを抑えつけ、電話に出た。

「もしもし」と文吾は低い声で言った。

「もしもし?母さんだけど、あんた元気だったかい?しばらく電話をよこさないから何をしてるのかと思って」

「特に何もしてないよ」

「あんた、大学の三年生にもなったんだから、就職の事もきちんと考える時期にしなきゃだめだよ。あと、あんた彼女はいるのかい?もしいないんだったら作ったらどうだい?きっとあんたのことだから、毎日だらだらと過ごしているんでしょう。通知票を見たら授業の単位もろくに取っちゃいやしない。彼女でも作った方が少しはましになると母さんは思うんだけどね」

 文吾は嫌な所を突かれたと思った。文吾にとって、「就職」と「女」との二つは、今最も耳を塞ぎたくなる言葉であった。

「別に就職のことはまだしも、彼女の事は母さんに関係ないだろう」

「そんなこと言ったって、母さんだって心配なんだから、母さんの言うことも参考にしてちょうだい」

 文吾は真二が「唯一信じることができるのは親だ」ということを言っていたのを思い出した。しかし、文吾には未だ親という存在を信じることができないとこの時に思った。

「そういえば文吾、あんたに葉書が届いていたよ。加藤星羅さんて方からだよ。顔写真が載せてあるけど、随分可愛い子じゃない。あんたにもこんな可愛い顔した知り合いがいたんだね。母さん少し安心したよ」

「え?」と文吾は無意識に甲高い声が出てしまった。

 文吾の思考は、一瞬にして二年前に遡った。

 

 

 文吾が大学の一年生の時であった。入学してから早々に部活を辞め、時間の有り余る生活を送っていた。そのような状態にあった文吾は、アルバイトで金を作り、ベトナムへ一人旅をしたことがあった。そして、ベトナムのホーチミンで出会った女性が加藤星羅であった。

 文吾は、ここ三日間泊まっている安宿に付属している食堂に居た。周囲には、中華系やヨーロッパ系などの様々な顔立ちのした外国人がベトナムの食を楽しんでいた。文吾の座る椅子と肘を置いているテーブルは、真っ青なプラスチック製のもので、いかにも安っぽさがあらわれていた。

 文吾はこの日が全旅程の中の五日目であった。この日の予定は、カオダイ教という当時ベトナムで流行している新興宗教の寺院を観光するという目的が一つあったが、特にそれ以外の目的は無く、寺院を観光する以外の時間は市内をぶらぶらと散歩する予定でいた。

 文吾は食堂でベトナム語でチャオ・ガーと呼ばれる鶏粥を食べながら、周囲を見回していた。

 すると、文吾の前方にあたるテーブルに、現地のベトナム人と思われる男性五人と日本人女性一人が会話を交わしながら席に座った。その日本人女性は何年もベトナムで生活しているような雰囲気を出していた。髪は真っ黒で、頭の後ろで束ねていて、輪郭のはっきりとした眉と反りあがった睫毛とは、日本人とは思えない程の迫力を出していた。また、相手の性格をすぐに見透かしてしまいそうな、奥二重で透明感のある目は、鋭い眼光を放っていた。背丈は低めで一五五センチ程に見えた。

 文吾は気付かれないようにして、その美しさを観察していた。

 しかし、文吾の視線に気付いたその女性は、同伴していた五人のベトナム人と話ながら、意図的に文吾と視線を合わすタイミングを計り、終に二人は目と目とが合わさった。

「あっ」

 文吾は目が合ってしまったことに驚きながら、その女性に向かって軽く頭を下げた。

「こんにちは、日本人の方ですよね?」と女性は文吾に言った。文吾は軽く頷いた。

 そう言った女性は、自分のテーブルを離れ、文吾の席へ寄ってきた。女性自体に慣れていなかった文吾は、少し緊張気味であった。

 文吾のテーブルへ移動したその女性は、堂々たる態度で、「ここ、座って良い?」と言い、文吾に許可に得るのを待ってから椅子に座った。

「一人で来てるの? 随分体格が良いね。何かスポーツやってたの?」と一つの質問が解決しない内に、次々と質問を投げかけてきた。

「はい。五日前ぐらいからベトナムに来てるんです。スポーツは……つい最近までラグビーをやってました」と文吾はまるで質問を投げかけてきた面接官に答えるように、正直に、順番良く答えた。

「そうなんですか。どおりで筋肉質だと思った。今日はどこか観光するの?」

「はい。カオダイ教の寺院を見に行こうと思うんです」

「へぇ、カオダイ教寺院ていったら、ここからだと結構距離あるね。けど私そっちの方面に用があるから、バイクの後ろで良かったら乗っけてあげるわよ。あっ、自己紹介が遅れたけど、私、星羅っていうの。あなたは?」

「文吾って言います」

「文吾ね、とりあえず、よろしくね」

 星羅は京都生まれで、実家は呉服屋をしていた。星羅は高校二年の時に、学園祭がきっかけとなり、アジアの民族衣装を作る機会があった。その時に星羅はベトナムの衣装に強く魅了され、ベトナムの虜になってしまった。そのような理由で、星羅は高校を卒業するとすぐにベトナム語を学びながら、生地売りをするに至ったのである。

 文吾は星羅の提案を快く受け入れ、バイクの後ろに乗せてもらうことにした。

 星羅は一緒にいた五人のベトナム人に事情を説明し、自分が注文した分の代金をテーブルの上に置いた。

「こっちよ」と文吾に言って文吾をバイクの置いてある場所まで案内した。そのバイクには「HONDA」とあり、日本製のバイクであることがわかった。しかし、バイクはかなり古びていて、かつ土にまみれていて、もはや「日本製」という面影を残していなかった。

 星羅は先にバイクに跨り、エンジンをかけた。そして後から文吾が跨った。文吾は女性に運転してもらうことに対して、ちょっとした恥辱心を持ちながらも、ヘルメットをかぶらずにバイクに乗れることが爽快であった。

「しゅっぱぁつ!」と星羅は叫び、バイクは壊れかけの音を出しながら発進した。

 ホーチミンの街を星羅と文吾は風を切るように駆け抜けていった。文吾はホーチミンの街並みが好きだった。飾り気のない白色や褐色のコンクリートで造られた建物が並んでいたが、どこかフランス領の香りを残したベランダの造りと、街中に散在しているフランスパンの屋台とが文吾の心を掴んでいた。街並み自体は非常に素朴であるのに、その素朴さが木々の色や空の色、そして土の色にうまく調和していた。その街の素朴さとは裏腹に、数え切れない程のバイクが文吾を囲っていた。この素朴さと活気との矛盾が魅力であると文吾は感じていた。

 そのような事を考えていると、星野はバイクを運転しながら、文吾に聞こえるように、大きな声を出して言った。

「ねぇ、また提案があるんだけど!」

「何ですか!?」と文吾は顔を前方に乗り出して言った。

「あと二、三キロ行った所に、私のお店があるんだけど、もし良かったら寄っていかない? あんまり興味無いかもしれないけど……」

「いや、そんなことないですよ。是非、寄らせて下さい」

「そお? 良かった! もう少しで着くからね!」

 そう言った星羅は、ハンドルを強く握りしめ、スピードをあげた。

 星羅の店は、ホーチミンの都心部に比べると、かなりの田舎にあった。文吾は自分の実家とさほど変わらないその様子に驚きながら、「こんな所で商品が売れるのか」と心の中で思った。

 二人は星羅の店に到着した。星羅の店は平屋でコンクリート造りの小さな建物であった。正面の白い壁には、「セイラクロス」と英語で刻まれた看板が掛けられていた。屋根はもともと赤色であったが、星羅の好きな緑色に塗りかえてもらったらしい。

「とりあえず中でコーヒーでも飲んでいってよ」

「はい。どうもありがとうございます」

 文吾は店に入ると、意外と整理されていない店内だったことに驚いた。星羅の外見だけで、几帳面で清潔好きな性格を勝手に予想していたのである。

 星羅は店の奥にある自分用の部屋に行き、コーヒーを入れる準備をしていた。文吾は雑多な店内を観察していた。店内には、ベトナムの民族衣装に使われる生地が木造の棚に並べられていた。その中身は、多数民族であるキン族の中国文化を受容したアオザイに使われる生地は極一部であった。商品の大部分を占めているのは、キン族に比べると他文化の影響を受けずに、独自の文化を保持しているモン族のものであった。文吾は店内を一見して、星羅がモン族の衣装に興味を持っている人間であることがわかった。文吾はモン族が着る民族衣装の生地を手に取り、それを眺めた。文吾が生地を眺めている様子を奥の部屋から見た星羅は説明を始めた。

「モン族にも色々あって、黒モン・青モン・白モン・花モンの四種類に分けられているの。モン族はホーチミンじゃなくて、ラオスの山岳地帯に住んでいるの。だからできればラオスに店を持ちたかったんだけど、ラオスにはすでに生地屋がたくさんあってね。モン族の衣装はほとんどが女性専用として作られるから、男性は普段は民族衣装は着ないのだけど、黒モン族だけは男性も民族衣装を着るの。黒モンだったら文吾にも調達してあげられるわよ。今文吾が持っている生地の二つ左にあるのが黒モンの生地だよ」

 星羅の説明を聞いた文吾は、持っていた生地を一度棚に置き、黒モンの生地を手にして眺めた。その生地は、すでに藍染めされていて、特に刺繍は施されていない無地であった。表地が藍色で裏地が少し曇りがかった空のような水色をしていた。その二色の組み合わせが、文吾には何とも美しく見えた。

「コーヒーできたよ」と星羅は言い、文吾を奥の部屋に招き呼ぶ動きを見せた。

「どうも、コーヒーまでいただけるなんてすいません」と文吾は言い、頭を少し下げながら奥の部屋に入った。

 部屋の内装はごく単純であった。八畳程の空間にはキッチンとベッドがあり、中央には木造のテーブルと椅子が二つあるだけだった。

 椅子に腰掛けた文吾は、さっきまでジーンズにTシャツというシンプルな格好をしていた星羅が民族衣装に着替えている事に気付いた。

「それがモン族ですか?」と文吾は顔をほころばせて言った。

「あっ、やっぱり気付いた? これが黒モンの衣装よ。可愛いでしょ!」と星羅は格好を付けて言った。

 基本的には自生の藍染めで、長袖の上衣にロングベスト状の袖無しベスト、キャロットスカートに帯を巻いていた。長袖の腕の部分には、赤や白、青などの太めの線が施され、その線と線との間には曼荼羅のような模様が刺繍によって施されていた。

 文吾はコーヒーを飲みながら、星羅に見とれていた。

 すると、星羅は何もいわずに文吾の方向に向かって、一歩一歩近づいてきた。その目は、確実に文吾の目を捕らえていた。

「どうかしたんですか?」と文吾は細い目を見開いて言ったが、どうすれば良いのか分からず、身動きのとれないままでいた。

 星羅は誘っていた。椅子に座っている文吾の横を通り過ぎたと思えば、そのまま文吾の後に回り込み、文吾の頭を抑えた。そして、文吾のうなじの部分にそっと唇を触れた。

 文吾の心臓は、「どん!」と飛び跳ねた。文吾の白い肌は、見る見るうちに紅くなっていった。文吾の体内にある全ての血が、一気に下半身と頭とに二分されるような感覚が起こった。

 文吾はもの凄い勢いで椅子から立ち上がり後ろを振り向くと、そこには口元の笑った星羅の顔が文吾の胸の正面にあった。

 文吾は初めてであった。今までに女性と寝たことはおろか、唇を合わせたことも無かった。「どうすれば良いのか」「もし成功しなかったら」といった不安が文吾の頭を占領した。しかい、文吾にそのような事をいつまでも考える余裕は無く、決断が迫られていた。

 考えるのを止めた文吾は、目の前にいる星羅を体ごと持ち上げた。

「きゃ! すごい力」

 星羅は文吾とは正反対に冷静だった。あたかも、これから文吾と寝ますといわんばかりに、素直に文吾の腕に身を任せた。しかし、文吾にとって星羅の冷静さは嫌だった。星羅が男と寝ることに慣れているということが、文吾にとって一種の圧力となっていた。文吾は再び不安になるのを必死に食い止めるように、目に力を入れた。

 文吾は星羅をベッドの上にそっと置いた。そして、文吾の巨体が星羅を全く見えなくするように、星羅の上に覆い被さった。文吾は緊張のあまり瞬きするのを忘れていたので、目が充血していた。文吾は、その赤くなった目で、真下にいる星羅の瞳を見つめた。その瞬間、文吾にさっき、星羅が余裕な言動をした時に起こったものと同種の不安が襲いかかってきた。文吾は心の中で思った。

「ああ、どうしよう。これからどうすれば良いのだろう。これ以上何ができるんだろう。ああ、経験しとけば良かった。いや、経験しようとしてできるものなのか。もう駄目だ。俺には何もできん。もう、一生童貞で構わない。ああ、どうにでもなれ……」

 文吾は何を思ったのか、仰向けになっている星羅の背後に手を回し、鷹が獲物をとらえるが如く、思い切り星羅を抱きしめた。

「え!?」と星羅は驚いた声を出した。

 文吾の性交に対する不安、性交を達成できないという恥辱心、星羅の圧力に負かされたという屈辱心が、星羅を抱きしめる力を強めていった。

「く、苦しい」と星羅は目をつむりながら声を詰まらせて言った。

 星羅は苦しいながらも、文吾の体から伝わってくる「どんっ、どんっ」という心臓音を、自分の心臓音と錯覚する程に感じていた。文吾の心臓音によって、星羅が経験したことがないような性の一体感が生まれていた。星羅の中でその感覚は、もはや性の感覚を通り越し、「生」の感覚へと移り変わっていた。そして、星羅は文吾の表情、背中に感じる手汗、暴発する心臓音から、文吾の心境をそれなりに理解した。

 その時、星羅の表情には、全く味わったことのない感覚による興奮と、文吾の心境を理解することによる安心とによって、一種の恍惚感が生まれた。

 その一瞬の表情を見た文吾は、あたかも全身に電気が流れたように動きが止まり、次第に力が抜けていった。そして、下に埋まっていた星羅を避けるように崩れ倒れた。文吾の左腕だけが、星羅の首の上に乗っかかっていた。星羅は茫然とした表情をして、天井を見つめていた。部屋には極度の緊張と興奮とから解放された二人の荒い息だけが鳴り響いていた。

 

 

 文吾は目を開くと、一瞬、自分がどこにいるのかがよく分からなかった。

「あっ!」と声をあげ、自分が星羅という女性の部屋にいることに気付いた文吾は、すぐさま首を横に向けた。しかし、星羅はそこにいなかった。

 文吾はベッドから立ち上がって周囲を見渡すと、テーブルの上に置き手紙があった。文吾はその手紙を手に取り、読んだ。

「ぐっすりと寝ていたみたいなので、起こさずにそっとしておきました。ハノイに仕入れに行かないといけないので、十日間はここに戻りません。カオダイ教寺院は、ここからバイクタクシーをつかまえればすぐに着きます。中途半端な出会いだったかもしれませんが、私は文吾に出会えて良かったです。文吾が寝ている間に、黒モン族の男性用ズボンを仕立てました。良かったら日本に持ち帰ってはいて下さい。レジの所に置いています。家の鍵は郵便受けに入れておいて下さい。星羅」

 文吾は手紙を読み終えると、真っ先にレジ台へ向かった。レジ台の上には、藍色のズボンが置いてあった。文吾はそのズボンを手に持つと、あっけに取られた表情をして棒立ちになりながら、その黒モン族のズボンを見つめた。

 文吾は昨日の出来事があまりにも一瞬の出来事のように思えてならなかった。しかし、昨日の星羅が一瞬に見せた表情が、文吾の頭に強烈に焼き付いていた。

「また会いたい」と思った文吾は、星羅の手紙の余白に自分の実家の住所を記した。あえて実家の住所を記したのは、星羅がもし数年後に葉書を送る時、文吾の住所が変わっていようとも、実家の住所であれば確実に届くという意味が込められていた。また。文吾は「良かったらまた葉書でも下さい」と一言付した。それ以上は書く言葉が見つからなかった文吾は、依然として輪郭のはっきりしない表情をしていた。店の鍵をしめた文吾のリュックサックからは、乱雑に入れ込まれたと思われる黒モン族のズボンが、少し開いたチャックからはみ出ていた。

 

 

「母さん、その葉書読んでくれんか?」と文吾は焦った口調で言った。

「うん、いいよ」

「文吾さん、お久しぶりです。元気にしてましたか?今でも文吾さんとの思い出をはっきりと憶えています。黒モン族のズボンははいてくれていますか?私は現在、店をハノイに移転して毎日を送っています。新しい友達も増えて、毎日が楽しいです。日本に帰ることはしばらくないと思います。ぜひ、今度はハノイを旅しに来て下さい。その時に会える事を楽しみにしています。星羅」

「あんた、よかったらあんたの所にこの葉書送ろうか?」

「いや、いいよ。もういいや、それじゃまたな母さん」と文吾は葉書の内容を聞くとすぐに電話を切ってしまった。

 電話を切った文吾は、立ち上がって押入に向かった。文吾は星羅に仕立ててもらった黒モン族のズボンを押入の中に保管していることを思い出したのである。文吾は押入を開け、奥の方にあった埃のかぶったバックパックを開けると、その中にズボンはあった。

 文吾は星羅に仕立ててもたったズボンを日本に持ち帰ってきたは良いが、一度もはいたことがなかった。それは、文吾にとって、星羅との出来事を思い出したくないという気持ちの現れであった。しかし、一度思い出したものは仕方がないと思い、ズボンをはいてみることにした。

 はいてみると、腰回りが文吾の巨体にぴたりと合うように仕立てられていた。このことは、文吾が星羅を抱きしめた時に、星羅が文吾の腰回りを正確に把握したのだろうということを、文吾に想起させた。そう思うと、文吾は何ともやるせない気持ちになった。

 文吾は床に胡座をかき、眉間に皺を寄せながら星羅の事を考え続けていた。その時であった。

「キンコーン」とインターホンの音が鳴った。

 文吾は「真二か?」と思いながら、複雑な顔をしてドアの覗き穴を見た。

 それは真二だった。文吾はドアを開けた。

「昨日はどうも、今日もまたどうも」と真二は冗談ぽく言った。

 しかし、文吾にはその冗談を素直に受け入れることのできないわだかまりがあった。それは昨日の会話の中で、真二が次第に軽い存在となっていることが明らかになった瞬間でもあった。

「今日も景子が仕事でさ、何もすることがなくて来てしまったんだよ。コーヒーでももらえないか?」

「そうか、別に構わないけど、コーヒーを飲んだら帰ってくれよ」

「何だよ冷たいなぁ。何か嫌なことでもあったのか?」

 文吾は何も言わずに、コーヒーを入れる準備をした。すると、文吾の後ろに立っていた真二が、文吾のはいているズボンを見て言った。

「変わったズボンをはいてるなぁ、文吾」

 二つのコーヒーカップを洗っていた文吾は、黙ったまま何も答えようとしなかった。しかし、何も答えない方が不自然になると考えた文吾は、「そうだろ」と一言つぶやいた。

「どっかの国の民族衣装か?インド?」

「いや、ベトナムだよ。おととし行ってきた時に買ったんだ」と文吾はなるべく端的に答えた。

「そうなのか、でもそんなズボンはくなんて、お前にしては女らしいな」

 出来上がったコーヒーをカップに入れようとしていた文吾の手が一瞬止まった。文吾の耳に、真二の「女らしい」という言葉が、妙に引っ掛かった。その「女らしい」は文吾にとって、星羅が仕立ててくれたズボンが馬鹿にされているように聞こえた。その「女らしい」は、星羅を「男らしく」抱くことのできなかった屈辱感を文吾に蘇らせた。

 文吾の顔は青白くなっていた。文吾の身体は、周囲の何者をも受け付けない閉塞感に満ち溢れていた。嫌な予感のした文吾は「あ……」と声を出した。この感覚は、正しく昨日神社で経験した感覚であった。

 文吾は後ろを振り返ると、真二は「機械」になっていた。

 文吾は真二に対する憎悪と、機械的な雰囲気に耐えることができなくなり、真二に向かって物凄い勢いで突進していった。

「おい何だお前! おい!」と真二は必死に叫んだが、もはや文吾の耳には聞こえていなかった。

「うぉぉぉ!」と文吾は猛獣の如く唸り、ラグビーを思わせるタックルを真二にくらわせた。文吾の角張った肩は真二の胸部に突き刺さり、文吾のかたくて丸い頭は真二の顎に直撃した。真二は声を出す間もなく壁に打ちつけられ、そのまま床に倒れた。真二は気絶していた。

 文吾は床に倒れている真二を見ると、我に返ったように表情を変えて、真二の元へ駆け寄った。文吾は「真二、大丈夫か!?」と一生懸命に声をかけても真二はびくともしなかった。文吾は「これをやったのは自分なのか?」と思うと、何とも不可思議たることに恐怖心が込み上げてきた。もはや自分の部屋にいること自体が精神的に窮屈になった文吾は、そのままの格好で急いで靴をはき、外へ出た。

 外は、やはり機械だった。道行く人々の表情は、文吾にとって人間ではなく、ただただ機械的であった。空の暗いことは明確に認識していた。しかし、夜風の肌に当たる感触、通りすがる人々の声、車の走る音全てに鈍感になっていた。文吾は周囲の機械的な世界に怯えながら、自らが居る現実から一刻も早く抜け出したいという様子で疾走し続けた。

 文吾は、無意識の内にある方向へと向かっていた。それは昨日真二と一緒に訪れた金成神社の方向であった。文吾は感覚がぼやけた世界の中で、さっきまで無意識に走っていたが、道の途中から自分が明らかに神社の方向へと向かっていることを認識し始めた。

 すると、二百メートル先に、うっすらと鳥居の輪郭が見えた。文吾は、あたかもその鳥居がゴールラインでもあるかのように、目を見開いて腕を縦に大きく振り、直進した。

 しかし、鳥居に至るまで約百メートル程残した所で、文吾は足を緩めた。一度足を緩めた文吾は一瞬何かを思い出したように、急に進路を変えて右方向に曲がり、森の小道に駆け込んだ。

 そこは、神木のある森であった。小道に駆け込んだ文吾は、再び足の回転を速めた。完全な暗闇であった。その暗闇は、文吾にとって、機械的な世界の全てを包み込むような暗闇であり、それは冷徹であった。文吾は、ほとんど目の前が見えないにも関わらず、全く走るスピードを緩めようとせずに、自分の無意識な感覚のみに身を任せていた。

 すると、前方に二つの前方に二つの分かれ道があると感じた文吾は、さらに目を大きく見開いて、何の感情かも分からないような奇声を発した。

「ウァオーウ!」

 文吾の奇声によって、あたかも森の中に住む生物が聞いて驚いたかのように、辺りは一瞬静まり返った。文吾は再び叫んだ。

「アー!」

 叫んだ時に、夜空を見上げる形になった文吾は、空にうっすらと月があるのを見つけた。そして、その月から目線を正面に直すと、そこには神木があった。

 神木は月光によって微かに照らされていた。文吾は月光によって、夜空と神木の葉との境界に、少しばかり輪郭をうかがうことができた。その境界にみる夜空は、正しく藍色というべき空であった。

 依然として神木に向かって走りつづけていた文吾は、その藍色の夜空を見るや否や、星羅に仕立ててもらった、現に今はいている黒モン族のズボンを思い出した。さらに、そこから連想されたのは、星羅が文吾に力強く抱きしめられた時に見せた、あの一瞬の表情であった。

 月光に照らされた神木と星羅の表情とが文吾の視界の中で重なり合った時、文吾は一種の諦めと終焉を迎えたと感じた。

 文吾には、もはや真二に体当たりをした時のような勢いは残っていなかった。

 しかし、文吾は神木に向かって、呻き声をあげながら、自らの全てを砕かんとす如く、頭から突っ込んでいった。

「ゴッ」

 文吾の頭がぶつかった音は、森全体に響き渡り、静寂を突き破った。

 文吾は幹に頭を一度ぶつけながらも、再び幹にすがるようにして倒れ込んだ。

 

 

 農道を歩き続けた文吾は、土のにおいの混ざった空気を思い切り吸い込んだ。すると、さっきまでもやもやとしていた頭の中がすっきりと、純潔になったような気がした。

 文吾は自分が新しく感じた。自分の頭からつま先に至るまで、一直線の芯が貫き通るような気分であった。

 親が心配していることも考え、文吾は家に戻ろうとしたが、小さい時に良く遊んだ公園を通りかかったので、その公園にある石造りのベンチに座って一休みすることにした。するとそこに、杖をついて一人の老人が経っていた。竹下おじさんだった。竹下おじさんは、文吾が幼少時によく遊びに行っていたおもちゃ屋の店長である。体格は小柄で、髪の毛は真っ白に染まっていた。

「もしかして文ちゃんかい?」

「はい。おじさん、お久しぶりです」

「こんな時期にここにいるなんて珍しいね。正月でも盆でもないのに」

「はい。自分にもよくわからないんですが、とりあえず実家が恋しくなったといえばいいのか……」

「そうかい。そう言う気持ちがあるっていうのはうらやましいねぇ。おじさんは昔の人だから、ここから外に出ることはなかったからね。故郷なんてものはあってないようなものだよ」

 文吾は笑みを浮かべながら、思いついたように竹下おじさんとの思い出を語り出した。

「そういえばおじさん、僕が小さい時、輪ゴムで飛ばす飛行機を買いにおじさんの店に行った時、おじさんが「今日は本当に良い天気だね」と言った。それに対して、僕が「そうですね」と返したら、おじさんが「その言葉一生忘れるんじゃないよ」と言った。僕はこのおじさんとのやりとりを今までずっと憶えていました。一つの会話をここまで記憶していることが不思議でなりません」

「そうかそうか。残念ながらおじさんは憶えてないけど、おじさんの言葉が文ちゃんに印象づけるものがあったんだろうね」

「おじさん、何か信じているものはありますか?」

「信じているものか……亡くなった妻かな」

 竹下おじさんは少し眉間に皺を寄せながらそう言った。竹下おじさんは、結婚して間もなく妻を亡くした。

「きっと、昔文ちゃんに言った言葉も、亡くなった妻が言った言葉なんだと思うよ」

 文吾は微笑んだ。その笑顔は決して機械の色のない、自然なものであった。

 文吾は竹下おじさんに頭を下げ、公園を後にした。そして、軽い足取りで家に向かった。さっきまで土の匂いのしていた風、公園に植えられていた木々に立ち止まる鳥の鳴き声が、新しい自分を歓迎しているように文吾には感じられた。

 

 

 <了>